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著名人インタビュー この人に聞きたい!
大九明子さん[映画監督]



第3章 就職するも、わずか4ヶ月で退職、そしてお笑い芸人に。

秘書と総務を経験したサラリーマン時代。

――大学卒業後の進路について教えてください。

大九明子、インタビューカット3-1

【大九】労働省の外郭団体に就職しました。当時はバブル時代が終わる頃で、選ばなければ就職に苦労しない時代だったんです。
私は、(大学4年生の)夏休み頃に就職課に行って、そこに貼られている団体職員の求人を見て決めました。(行政関連の団体は)有給休暇も取りやすくていいよって聴いてたから気軽なノリで就職試験を受けて、ポッと受かっちゃったって感じだったんです。
実は卒業後も、まだお笑い集団を続けていて社会人になっても定期公演みたいなことをやれたらいいかな~くらいの思いでいたんで、わりと時間の自由が利く所に勤めたいと思っていました。

――どんな仕事の内容でしたか?

【大九】団体理事の秘書業務と総務部としての仕事がありました。バッチリ事務職ですね。団体自体が労働安全を推進するっていう団体だったんで、いろんな企業に啓蒙する映像を作っていたりしたんで、映像部とか出版部とかもあったんです。就職が決まった8月以降、アルバイトをさせてもらっていて、その間は映像や出版の楽しいバイトをしていたんですね。だからそういう部署に回されると思ったら、4月1日になったらいきなり総務部になっちゃって「あれ?」っていう感じでした。オフは、お笑いユニットの活動をしようと思っていたんですが、やっぱり社会はそう甘くなかったんですね。仕事をするってことは、そんなことではイカンのですよね。横浜から東京への通勤ラッシュに揉まれて、社会人としての仕事をこなすってことに疲れきってしまいました。まだ当時女性がお茶を汲むのが当たり前の時代で、そういうことは同期の男子にも手伝って欲しいから「手伝って」って言うと、上司に呼ばれてとか・・・すごい大事(おおごと)になっちゃって「なんかちょっと面倒くさいぞ」と思って、これまた辞めちゃうんです。(4月に入社して)夏くらいに辞めちゃったんです。

――ご家族の反応は、いかがでしたか?

【大九】最初、父には言えませんでした。母にだけは、毎日帰ってくると「疲れたよ~」って暗い顔ばかりしていたから「だったら辞めちゃいなよ」って言われることもあったんで、母には「もう辞める!」って言ったんですけど、父には、なんかもう申し訳なくて言えなくて、辞めてしばらくは会社に通っているふりしていましたね。 娘も自分と同じサラリーマンになったっていうことが、すごい嬉しそうで、社会人としての話を色々してくるのが、可哀相過ぎて言えなくて・・・「ごめんなさい」って心で思いながらしばらくは黙っていました。

サラリーマンを辞めて、お笑い芸人になる。

――辞めてからの進路は、どうされたんですか?

【大九】辞めてしばらくした頃、芸能プロダクションの人力舎がお笑い芸人のスクールをスタートさせたんです。それに応募して、第一期生で入ったんです。1年通ってました。サラリーマンを辞めて、なんとなく道を失った時に募集を見て、「あっ」と思って入ったものの、それまでの集団での笑いでなく独りコントとか漫才とかそういうことをやらなければいけなくなったわけで、「どうしようかな~」って思って、独りコントを始めたんです。独りで台本を書き、演じてっていう風に。

――お笑い芸人は、何年くらい続けたんですか?

【大九】番組に出させてもらったり、ライブに出させていただいたりと、ちゃんと活動したのは、1年くらいです。
続けられるものなら一生続けようと、思っていました。でも一生懸命ネタを作らねばと思うんですが、結局5本もなかったと思いますね、ネタを3、4本作ったところでもう息切れしちゃって、やっぱり続けられないんですよね。ネタっていうことに関して、限界があって。独りで作って独りで演じるっていうことが続かない。それ以降は、チャンスを見つけようと独りでネタやったり、集団でもやってみたりとか、色々なことを試している時期でした。