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著名人インタビュー この人に聞きたい!
田川博己さん[JTB 代表取締役社長]
1948年東京都生まれ。慶應義塾大学商学部卒業後、株式会社日本交通公社(現JTB)入社。別府支店を皮切りに、本社国内旅行部・海外旅行部に所属し、地域振興や旅行業の実践体験を積む。川崎支店、米国法人副社長、専務取締役を経て、2008年6月より代表取締役社長(注:2008年6月~2014年)。「観光カリスマ百選」選定委員、日本エコツーリズム協会副会長、自治体観光アドバイザー、JTB「交流文化賞」実行委員を務め、観光振興に積極的に取り組んでいる。
「この仕事に向いているのは、人を楽しませるのが好きで、高いエンターテインメント性を持っている人」と笑顔で語るJTB田川社長。日本の旅行業界を代表する企業の社長であることを、一瞬忘れさせるようなちょっとやんちゃな表情は、お話を聞いていくうちに、子どもの頃、勉強そっちのけで大いに遊んだ原体験がベースになっていることが分かる。中高生諸君、将来の仕事を考えることも大事だけど、その前に、まずは外に出て自然とふれあい、感性を磨こう。
取材日:2009年2月/取材・文 野口啓一
[INDEX]
- 第1章 父親の影響で数学に興味を持ち、大きいものを造ることに憧れる
- 第2章 「この仕事は人を動かすんだ」という先輩の言葉が胸に響き旅行会社へ
- 第3章 自然と触れ合い、感性を磨いて、エンターテインメント性を高めよう
- 第4章 旅行業界ハローワークマップ(JTB編)
●第1章 父親の影響で数学に興味を持ち、大きいものを造ることに憧れる
小学3年から中学2年まで、夏休みは田舎で過ごし、自然とふれあう
――東京出身ですが、本籍は福井県なんですね。
【田川】父の実家が福井なんです。それで、私の本籍も福井になっているんです。祖父の意向もあって、子どもの頃は、夏休みはほとんど福井で過ごしていました。最初に行ったのは小学校3年生くらいだったと思います。おばに連れられて、当時はトンネルができる前でしたので、蒸気機関車で行きました。中学二年生くらいまで、毎年のように行っていましたね。時には、正月も福井で過ごしたこともありました。はじめは、ただ連れて行かれているといった感じでしたが、高学年になると福井でも友達が多くできましてね。夏休みになると、ワクワクしてましたね。
幼稚園や小学校低学年の頃は、東京でも近くの川で遊ぶことができましたが、高学年になる頃には川が整備されて、エビやザリガニなど獲れなくなっていました。さらに、空き地も整備され、遊ぶところがどんどん減っていました。それに対して、田舎へ行くと、お寺の中に相撲道場があったり、お祭りがあったり。そしてなんといっても田んぼで遊べるんです。そこで、カエルを獲ったり、どじょうを獲ったり。福井ではそういうことができたので、楽しかったですね。そんなこともあって、夏休みの絵日記は、田んぼと白山の山の風景ばっかりで、都会の風景を描いたことがなかったですね。
――ご両親の教育方針は?
【田川】母は趣味人で、書道をはじめ、いろんなことをやっていました。ですから、勉強に関してはうるさくはありませんでしたが、自分の好きなことに関してはしっかりやりなさい、ということを言っていましたね。
父は、どちらかというと学者っぽいタイプでしたね。家に工学系の本がたくさんあって、難しい本がたくさんあるという印象はありましたね。父もあまり勉強しろとは言いませんでしたが、本を読めとはずいぶん言われましたね。
小学生のときは外で遊んでばかりで、勉強嫌い。中学生になると数学が好きになり、漠然と「将来は理系かな」と
――田川社長は、どんなお子さんだったんですか?
【田川】母に言わせれば、勉強しなかったと(笑)。それくらい、勉強は嫌いで、いつも外で遊んでました。私の同期に俳優の寺尾聡君がいて、小学校4年生、5年生、6年生のときはホワイトユニオンズというチームを作って、一緒に野球ばっかりやってました。当時は野球くらいしか遊ぶものがなかったんですよ。それにしても、本当に小学校時代は勉強しませんでしたね。
本も嫌いで、文学書はほとんど読みませんでした。でもなぜか、父が持っていた、数学とか工学系の本には興味をもって読んでいましたね。もちろん、理解はしてませんでしたけど(笑)。
あと、絵が好きで、絵画教室に通っていましたね。それも母に言わせると、何で絵を習わせたのかよくわからないと(笑)。ただ、母は書道が好きだったので、感性を磨くために私にもいろいろなことをやらせようとしていて、それが絵だったんだと思います。
――中学のときは、どのように過ごされましたか?
【田川】中高生の頃は、バレー部に所属していました。本当は野球をやりたかったのですが、なんとなくバレー部に入部しました。当時、バレーは9人制で、バックセッターという今でいうとリベロのような役割があり、私は背が低かったので、それだったら自分も活躍できるのではないかと思って。あと、たまたま体育の先生がバレー部の顧問だったから入りやすかったというのもあったと思います。
勉強は、小学生の頃は算数が大嫌いだったんですが、中学生になると数学が好きになったんですよ。父は精密機械工学が専門なので、数学の本がうちにたくさんあって。数学は面白いなと。父は、いつも「数学は哲学だ」なんてよくわかんないことを言うんですよ。軍人なのに軍隊の話は一切しなくて、そういう話ばかり。そんなこともあって算数と数学は全然違うもんだと思って、数学には興味がわき、将来は漠然と理科系に行きたいなという思いはありましたね。
具体的には、親は精密機械、つまり小さいものを作ってたのですが、私は小さいものよりもデカイものを造りたいなと。私の子ども時代は、多くの子はだいたい切手か鉄道が趣味で、私は鉄道に興味があったから。東海道の名前覚えるとかね(笑)。それで、トンネルを掘る、橋を造る、鉄道を敷くなど、土木関係の仕事に興味をもっていました。ちょうど日本が高度成長期に入る昭和30年代の後半で、池田首相が所得倍増計画をかかげ、スポーツでは長嶋茂雄や王貞治が出てきた頃ですね。日本中に活気があって、将来、大きいものを造れるといいなと。
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