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著名人インタビュー この人に聞きたい!
笹森通彰さん[イタリアン・シェフ]

写真:笹森通彰さん

1973年青森県弘前市生まれ。専門学校時代にバイトしていた仙台のイタリア料理店で料理に目覚め、3年勤める。その後3年間、都内の有名店などで修行し、2001年1月に渡伊。ミシュラン2つ星レストラン「ドラーダ」をはじめ各地で2年半修行。2003年6月帰国。同年8月、青森県弘前に、イタリアンレストラン「オステリア エノテカ ダ・サスィーノ」をオープン。ブログ「サスィーノ日記」には、笹森さんの食への姿勢がつづられている。


天職とは、思いがけず出会うものかもしれない。青森県弘前でイタリアンレストラン「オステリア エノテカ ダ・サスィーノ」を経営する笹森通彰さんも、そんな一人と言えるだろう。専門学校時代、イタリアの車とサッカーが好きだった笹森さんは、イタリア関連ということで、イタリアンレストランでアルバイトを始めた。あるとき、作ったまかない料理をほめてもらい、扉が開いた。その後は、まるで見えないレールに乗ったかのように、イタリアンシェフの道をひた走る。そう、“一流になる”という夢に向かって。

取材日:2008年10月/取材・文 野口啓一



第1章 学生時代遊んだ分、社会人になったからにはビシッとやろうと決めた

イタリアの車とサッカーが好きで、イタリア関係でアルバイトを探して見つかったのが、イタリアンレストランだった

――自宅の畑で野菜を育て、お店で出すというのは、都心ではできないことですね。

笹森通彰|イタリアの車とサッカーが好きで、イタリア関係でアルバイトを探して見つかったのが、イタリアンレストランだった

【笹森】両親は公務員なんですけど、もともと祖母が、家で食べる分の野菜をつくっていたんです。でも今は、僕が相当奪って自分のお店で使う野菜を作っているので、自家消費用はごく一部ですね(笑)。あと、烏骨鶏も飼っていて、お店ではその卵を使っています。

――少年時代は、どのように過ごされたのですか?

【笹森】親は、僕に「勉強しろ」と一切言ったことがなく、好きなことをやれという考えでした。好きだったのはテレビゲームで、あと釣りですね。近くに川があったので、よく行っていました。友達と行くこともあれば、一人で行くこともありましたね。

将来の仕事についてはあまり真剣に考えておらず、中学高校の頃は、なりたいと思う職業も特になく、ただ漠然と過ごしていました。高校卒業後は、仙台のコンピューター専門学校に進みました。コンピューターが好きだったので、将来はプログラマーでもいいかなという軽い気持ちからでしたが、それよりもまだ遊びたかったというのが大きな理由です。

――イタリア料理とは、どのようにして出会ったのですか?

【笹森】専門学校に通っているとき、イタリアンレストランでアルバイトしていたんです。当時、イタリアの車とサッカーが好きで、アルバイトもイタリア関係で探していたんです。そうしたら、そのお店が見つかって。ですから、もともとはシェフを目指していたわけではないんです。

料理に興味を持ち始めたのは、まかない料理を作ってからです。シェフの見よう見真似でキノコのクリームスパゲッティを作ったら、みんなに美味しいとほめられて。そのとき初めて、料理人もいいかなと思いました。そんな折、お店から「社員にならないか」と声を掛けられたんです。ちょうど専門学校を卒業する間近で、まだ就職先も決めていなかったこともあって、そのままそこで働くことにしたんです。今考えれば、偶然イタリア料理だったというだけで、フランス料理でも和食でも、あるいは営業マンでもよかったんだと思います。

――社会人としてイタリアンレストランで働くと決めたとき、何か意気込みはあったのですか?

【笹森】そのときは、将来どうなるかわからなかったんですけど、20歳までぷらぷらと遊んだ分、社会人になったのだからビシっとやろうと決めました。同時に、将来は地元でお店をやりたいと思いました。その理由は、高校生のときまで食べていた、実家の裏で採れる野菜が美味しかったからです。一方、アルバイト先で使っていた野菜は青果店から仕入れていたのですが、美味しくなくて、「こんなので料理したって、たかが知れているな」と思ったからです。

あと、もしかしたらあったのかもしれないけど、地元の津軽で美味しいお店を誰も知らなくて、それを変えたいという気持ちもありました。ですから、やるからには有名なお店、何を基準にするかわからないですけど、日本で一番のお店を地元でやりたいなと。

この想いを実現するために、計画を立てました。最初の3年は、仙台で包丁とフライパンと、調理の基礎を勉強する。次の3年は、東京の一流店で働く。そして最後の3年はイタリアの一流店で働き、30歳までに雇われシェフとして働くか、あるいは自分がオーナーとしてお店を持つ。このとき、30歳というのが大きなポイントでした。

それで、最初の3年間は、先輩シェフに聞けることは、ひと通り全部聞いて覚えるようにしました。それ以上に、本から多くを学びましたね。あらゆる知識を自分のものにしようと、料理雑誌から専門誌から、片っ端から買って読み漁りました。

東京では、3年間で3件のお店に勤め、料理の技術だけでなく、お店を切り盛りするすべてのサービスを習得。

――東京の一流店で働くという、次の計画に進むために、どのような行動をしたのですか?

笹森通彰|東京では、3年間で3件のお店に勤め、料理の技術だけでなく、お店を切り盛りするすべてのサービスを習得。

【笹森】東京の友達の家に泊まらせてもらって、求人情報誌を見て、片っ端から当たりました。それまで専門誌は相当読んでいたので、行ったことはなくても、このお店はしっかりしているとか、有名だとかは頭に入っていました。だから、店名を見ただけで自分が理想としているお店かどうかわかり、ここも行ってみよう、ここもすごいんだよなぁと思いながら、面接に行くお店を探しました。

東京で働くにあたり、2つの目標がありました。1つは、東京だとやはり料理の技術は日本でトップクラスですから、一流の技術を学ぶこと。もう一つは、次の段階ではイタリアに行くつもりだったので、イタリア語を覚えるためにイタリア人シェフのいるお店を限定して選びましたね。

――具体的に、どんなお店で働いたのですか?

【笹森】東京では、1年ずつ3軒のお店で働きました。

1軒目は、南青山にあるリヴァ・デリ・エトゥルスキというお店です。ここでは、最初は調理場が一杯だったので、キッチン待ちでホールサービスを担当しました。最初からキッチンにこもって技術を習得するのも良かったのですが、オーナーになるにはお店のサービスをすべて知っておかなければならないので、ここでホールサービスを勉強できたのはとても良かったですね。ワインもそこでたたきこまれましたし、本当にいい経験ができました。ちなみに、この業界は人の入れ替わりが早くどんどん辞めていくので、わずか半年間ホールサービス担当でしたが、最後の一月はホール長をやってました(笑)。

――イタリア人シェフとは、積極的にコミュニケーションしていたのですか?

【笹森】はい。シェフ連中は、調理場ではイタリア語しか話さないんですよ。さすがに、料理の単語はわかるんですけれど、細かいことを言われると理解できず、はじめは言い返したくても言い返せませんでした。ですから、家でイタリア語を勉強して、ちょっとでも覚えると、シェフとしゃべるようにしていました。すると向こうも、こいつやるが気あるなと思ってくれて、ちゃんと言葉も教えてくれて、料理も教えてくれました。そうやって、少しずつイタリア語を覚えていきました。

――2軒目と3軒目のお店は、どのようにして探したのですか?

【笹森】2軒目のお店は、1軒目のお店の元マネージャーと2番目のシェフから、「西麻布でお店をやるから来ないか?」と誘われたんです。そのシェフは日本人だったんですけれど、理論的に教えてくれるのでとても勉強になり、慕っていたんです。また、1軒目のリヴァ・デリ・エトゥルスキは大きいお店だったので仕事が分業化されていましたが、このお店は小さくて、調理場が自分とシェフ2人、ホールも2人でした。ということは、いろんな仕事を覚えることができ、自分の引き出しが増えると思ったのです。あと、オーナーとホールマネージャーがイタリア人だったので、そのまま継続してイタリア語も勉強できるかなと。

3軒目は、白金にあるピオラというお店です。ここは、新規オープンするということで、また別の人なんですけど、知り合いのイタリア人シェフに誘われて。ここでは完全に調理場で、ポジションの頭としてパスタとメインディッシュを担当しました。やはり人の入れ替わりが速いので、僕が辞めるころには2番目のシェフになっていました。ですからその頃には、原価管理から何からやっていて、自分でお店を切り盛りできるくらいになっていましたね。

 
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