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著名人インタビュー この人に聞きたい!
樋口弘光さん[アニメプロデューサー]
1978年埼玉県生まれ。大学時代にアニメ映画を見て、その映像表現に感動。以来、映像の仕事に興味を持ち、就職氷河期の最中、内定を勝ち取った証券会社を蹴り、アニメ制作会社・株式会社サンライズに入社。制作管理、制作デスクを経て、プロデューサーに。
『銀魂』はじめ、『映画 犬夜叉』シリーズ、『星界の戦旗』シリーズなど、多数の作品に参加している。
引っ込み思案で、あまり冒険をしない少年時代を過ごしたアニメプロデューサー樋口さんがこの仕事を選んだ理由は、「これまでの自分だったら選択しない方向に進んでみよう」という一大決心だった。
想像を絶する業界の習わしに強い拒絶反応を示し、入社わずか2,3日で、退社を決断するも、幸か不幸か、根っからの負けず嫌いが頭をもたげ、そのまま居続けることに。すると、あれだけ辛かった仕事に、やりがいを感じ、達成感を覚えるようなってきた。
楽しい仕事、やりがいのある仕事は、子どものときの「好き」の延長上にだけあるわけではない。自分が置かれた環境で、精一杯努力した先に、見えてくるものもあるのだ。
取材日:2013年7月/取材・文 野口啓一
原作:空知英秋(集英社「週刊少年ジャンプ」連載)
監督:藤田陽一
監修:高松信司
脚本:大和屋暁
キャラクターデザイン/総作画監督:竹内進二
主題歌:SPYAIR「現状ディストラクション」
(ソニー・ミュージックアソシエイティッドレコーズ)
キャスト:杉田智和 阪口大助 釘宮理恵 千葉進歩
中井和哉 鈴村健一 石田彰 山寺宏一
アニメーション制作:サンライズ
2013年7月6日(土)新宿バルト9ほか全国ロードショー
(C) 空知英秋/劇場版銀魂製作委員会
=> 「銀魂」公式サイト
(http://wwws.warnerbros.co.jp/gintama/)
単行本発行部数4400万部を超える、週刊少年ジャンプの看板コミック「銀魂」。
抱腹絶倒のギャグと壮絶アクション、そして厚い人情をも詰め込んだ天下無敵の痛快エンターテイメントである。
大ヒットを記録した前作「新訳紅桜篇」から約3年、原作者・空知英秋がアニメ銀魂のラストを飾るべく、一年を掛けて、全編描き下ろした完全新作エピソードで贈る映画化第2弾!
[INDEX]
- 第1章 学生時代に観たアニメ映画の映像表現が、心に刺さる。
- 第2章 一つの仕事をやり遂げるたびに、さらなる達成感を味わいたくなる自分がいた。
- 第3章 ~ アニメ制作現場 インタビュー ~
●第1章 学生時代に観たアニメ映画の映像表現が、心に刺さる。
――いよいよ『劇場版銀魂 完結篇 万事屋よ永遠なれ』が公開ですね。
【樋口】劇場版の構想は、2011年4月にTVシリーズの第二期が始まったときから考えていました。実際に動き出したのはその12月からで、原作者の空知先生と打ち合わせを行い、ストーリー原案作りに着手しました。作品の肝となるストーリーの作り込みに多くの時間を割いたことで、その後の制作スケジュールがかなりタイトになり、最後の1,2ヶ月は毎日が綱渡りでした。それを何とか乗り越え、無事に公開にこぎつけることができて、ホッとしています。
見どころは、万事屋の絆です。いつまでも万事屋を見ていたくなるような作品に仕上がっていて、子どもから大人まで楽しめます。
また、公開に先駆け、両国国技館で「劇場版銀魂 銀幕前夜祭り2013」を開催しました。この模様は、全国81館の劇場でも生中継され、昼夜2公演で計約4万人の銀魂ファンが駆けつけてくれました。このようなイベントは、今回3回目の開催となりますが、前回を大幅に上回る動員数を達成するとともに、ファンの方々の熱狂に直に触れることができて、本当に嬉しかったです。
――少年時代は、どのような子でしたか?
【樋口】性格は、引っ込み思案で、人と話すのが苦手だったため、集団の中にいても目立たない方でした。プロデューサーという仕事は、人間関係が重要で、立場的にもスタッフをまとめていかなければならないのですが、性格が変わったというわけでもないのに、よくこの仕事をやっているなというのが率直なところですね(笑)。
――習い事はやっていたのですか?
【樋口】小2から小6まで、近所の野球チームに入っていました。父が、読売巨人軍に熱を入れていて、よく一緒にテレビ観戦していた影響で僕も巨人ファンになり、当時4番サードだった原辰徳選手に憧れていました。
自分も原選手のようになりたくて、野球をやりたいと言ったのですが、両親は、それによって僕がもっと活発な子になるのではないかという期待もあったようで、大賛成でした。
練習は日曜日で、毎年夏には、栃木県の那須に合宿に行っていました。避暑地とはいえ、夏の炎天下で6、7時間練習し、しかも当時はまだ根性論がまかり通っていて、水を飲むと怒られるので、本当にきつかったです。でも、純粋に野球が好きだったので、辞めたいとは思いませんでしたね。
――ということは、少年時代の将来の夢はやはり…。
【樋口】そうです。プロ野球選手です。かといって、野球一筋というわけでもありませんでした。親にすすめられて、小3から小6まで、そろばん教室にも通っていました。でも、よくサボっていました。勉強が嫌いだったわけではありませんが、やはり友達と遊ぶ方が楽しいですからね(笑)。
放課後、友達とは、校庭でサッカーやドッジボールをしたり、近所でキャッチボールをしたりしていました。また、ゲームも人気でした。友達が持っているのを借りて遊んだり、友達の家で楽しんだりしました。うちの親は放任主義で、何事にもあまりうるさくはなかったのですが、ことゲームに関しては、高校受験が終わるまで絶対にダメだと言って、買ってくれませんでしたね。
――野球は、中学に入っても続けたのですか?
【樋口】小学校から中学校は持ち上がりで、みんながやるから自分もやるという、雰囲気に流された感じでしたが、野球部に入りました。僕自身は、野球が楽しくできればそれでよかったので、甲子園を目指して“血の汗を流す”ほど練習するとか、レギュラーになるためにライバル心を燃やすというほど思いは強くなく、そんな友達を見て、自分とのスタンスの違いを感じていました。当然、真剣に取り組む子はどんどんうまくなっていきます。僕の守備は外野でしたが、試合には、スタメンで出場するときもあれば、ベンチからスタートするときもあり、まちまちでした。
――将来の夢は、何か別のものに変わったのですか?
【樋口】これも父の影響なのですが、中学生になって、プロレスを見るようになりました。当時は、土曜日の夕方、ちょうど学校から帰った頃にテレビ放映されていて、とにかくそれを見るのが楽しみでした。
僕の実家は埼玉なのですが、プロレスが巡業に来た時、一度、父に連れて行ってもらったのです。その頃、僕は、全日本プロレスで四天王と言われていた三沢光晴選手の大ファンで、三沢選手の試合を生で見て感動し、自分もプロレスラーになろうと決意しました。
それで、高校では、プロレスラーとしての基礎をつくるべく、柔道部に入部しました。ところが、2年生の時、乱取り中に右ひざを脱臼骨折してしまったのです。そのまま病院に運ばれて、右ひざを手術しました。3ヵ月くらいギプスで固定され、さらにリハビリに3ヵ月くらいかかり、完治するまでに半年以上かかりました。それで、プロレスラーの夢は、あきらめることになりました。
――高校卒業後の進路について、どのように考えていましたか?
【樋口】高校時代は、なぜか友達の悩みを聞くことが多く、よく聞き上手と言われました。それで、心理カウンセラーを目指そうと思い、心理学を学ぶために大学の社会学部に進みました。
しかし、その気持ちとは裏腹に、大学に入って授業を受けてみると、全然興味をそそられず、結構早く、自分には向かないとあきらめてしまいました。一方、目指した方向とは全く違うのですが、一般教養の授業で、経済学の授業を受けられるコースがあり、そちらの方が面白くてよく聴講していました。
――今のお仕事には、どのようなきっかけで出会ったのですか?
【樋口】大学2年の時、『パーフェクトブルー』という劇場版アニメ映画を見たのがきっかけかな。ちょうどこの頃から、ハイターゲットと呼ばれる、年齢層をグッと上げたアニメーションが制作されるようになり、この映画はその先駆けだったと思います。
小中学校の頃は、テレビアニメも見たし、少年ジャンプなどのマンガも読みましたが、高校生になると、少し離れるようになって。それが、何かのきっかけでアニメ映画を見て、アニメでこんな表現ができるのかと衝撃を受けたのを覚えています。それを機に、アニメ映画を見るようになり、実写も含めた映像業界に興味を持ち始めたのです。
――就職活動は、どうされたのですか?
【樋口】就職活動は2方向行いました。一方は、大学に入って面白いと感じた経済分野です。こちらは、大学の学生課で紹介してくれたので、簡単に会社を見つけることができ、就職試験を受けることができました。結果、証券会社数社から内定をもらうことができました。
もう一方は、映像関係です。就職活動に先立ち、大学3年になってから、情報交換の場として、マスコミ業界への就職を目指すサークルを作りました。10人くらいの仲間が集まったのですが、僕以外は新聞社や出版社などを受け、アニメ制作会社を受けたのは僕だけでした。恐らく、周りからは変わった奴だなと思われていたんじゃないでしょうか(笑)。映像関係の会社は、アニメ映画を見て以来、どんな会社があるのだろうかと、映画の最後に演者やスタッフなどのクレジットが流れるエンドロールに注目し、片っ端からノートにメモしていました。その中から、採用予定について問い合わせたのですが、門戸が狭くてなかなか内定をもらえず、やっともらったのが、今勤めている株式会社サンライズです。
あと、大学1年のときから卒業までアルバイトしていたスーパーの店長から入社をすすめられ、店長推薦枠で内定をもらいました。仕事は嫌いではありませんでしたが、僕が目指していた方向と違ったので、こちらはお断りしました。
――今のお仕事を選んだ、理由は何ですか?
【樋口】証券業界は、型にはまったというか、真面目な職種というイメージがあり、映像業界は、型にはまらないというか、チャレンジングなイメージがありました。それまでの自分を振り返って見ると、高校受験の時も大学受験の時も、自分の実力から考えると、もっとチャレンジしてもよかったのではないかと思うのですが、性格が邪魔して安全策を選んできたという、半ば後悔みたいなものがありました。そんな自分の殻を打ち破りたくて、それまで取らなかった選択肢をあえて取って見ることにしたのです。そこには、20代はやり直しがきくという気持ちもありました。
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