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著名人インタビュー この人に聞きたい!
小松亮太さん[バンドネオン奏者]
1973年東京生まれ。14歳よりバンドネオンを独学で習得。1998年7月、ソニーよりCDデビューを果たし、同年9月のツアーでは圧倒的な人気を得た。以後、自身のユニットを率いて多数の公演をこなす一方、自らのプロデュースによる意欲的な企画の公演も行っている。これまでに、CD16枚をリリース。「ライブ・イン・TOKYO~2002」はアルゼンチンで、また『Tangologue』はアルゼンチンとブラジルの両国で発売され、好調なセールスを記録している。海外公演は、03年にブエノスアイレスでライブを行い、アルゼンチン演奏家組合などから表彰されたのをはじめ、ドイツ、韓国などでも行われ、熱狂的な反響を呼んでいる。さらに、タンゴの枠を超えて、宮沢和史、織田哲郎、葉加瀬太郎、大貫妙子、ミッシェル・ルグラン、小曽根真、夏木マリ、NHK交響楽団など多数のアーティストと共演。今回、映画『グスコーブドリの伝記』で、初の映画音楽を務める。著書に、『小松亮太とタンゴへ行こう』(旬報社)がある。
ピアノは2年余りでやめて、フルートも長続きしなかった。少年 小松亮太は、決して「先生の言うことをよく聞くいい子」とはいえなかった。かといって、音楽に興味がなかったわけではない。何かを習おうとすると、まず型にはめようとする指導方法が、性格的に合わなかったのだ。
そんなある日、“運命的”としか表現しようのない出来事が起こった。誰も弾ける人がいなくて、教えてくれる人もいない、バンドネオンという未知なる楽器と出会ったのだ。指導者がいないから、すべてが手さぐりで苦しいけれど、その分、進歩したときの喜びも計り知れない。
天性のセンスで難解な楽器をものにし、タンゴの救世主として世界中を熱狂させる小松亮太さんに、お話を伺った。
取材日:2012年6月/取材・文 野口啓一
『グスコーブドリの伝記』
【声の出演】小栗旬 忽那汐里 柄本明 佐々木蔵之介 林家正蔵 林隆三 草刈民代ほか
【原作】宮沢賢治(「銀河鉄道の夜」「風の又三郎」)
【監修】天沢退二郎
【監督・脚本】杉井ギサブロー(「銀河鉄道の夜」「あらしの夜に」)
【キャラクター原案】ますむら・ひろし
【作画監督】江口摩吏介
【主題歌】小田和正「生まれ来る子供たちのために」(アリオラジャパン)
【音楽】小松亮太
【制作】手塚プロダクション
【配給】ワーナー・ブラザース映画
2012年7月7日(土)、丸の内ピカデリーほか全国ロードショー
(C)2012「グスコーブドリの伝記」製作委員会
/ますむら・ひろし
=> 公式サイト(http://www.budori-movie.com/)
=> 公式facebook(http://www.facebook.com/budorimovie)
● 型がないから、自分らしくいられる。バンドネオンは、小松亮太を表現できる最高の楽器だった。
生まれついたフロンティア精神をかき立てた、誰も手に負えない楽器「バンドネオン」。
――子どもの頃から、音楽は身近な存在だったのですか?
【小松】両親はタンゴ奏者で、父はギター、母はピアノを弾いています。家で、バンドのメンバーたちとよく練習していましたから、音楽は日常的に耳にしていましたね。僕は、幼稚園から小学1年まで2年ほどピアノを習い、12歳のときにはフルートを習いました。だけど、どちらも長続きしませんでした。音楽でもスポーツでも、何かを習おうとすると必ず、「まずこれをやりなさい」と、あるメソッドに則って教育しようとしますよね。ピアノだと、バイエルというように。そのやり方に、どうしても馴染めなかったのです。そんな性格だから、小学校に入学して初めてもらった通信簿では、「とにかくマイペースすぎる」と評されたほどです(笑)。
――バンドネオンには、どのようにして出会ったのですか?
【小松】中学2年のとき、両親がバンドネオンを2週間くらい預かることになり、家に持ち帰ってきたのです。当時、僕はいわゆる”カギっ子”で、学校から帰宅すると、退屈しのぎにバンドネオンを引っぱりだして、ドはどこだろう?レはどこだろう?といじって遊んでいたのです。そうしたら、周りの大人たちが騒ぎ出して。「才能がある!」とか、「この楽器が本当にうまくなったら、独占企業だぞ」とか、「一生食いっぱぐれることがない」と持ち上げられたのです。それで、すっかりその気になってしまいました(笑)。
ちなみに、バンドネオンは、ハインリヒ・バンドというドイツ人が考案したもので、もともとは、野外で行われる教会の儀式で、パイプオルガンの代わりとして使うために作られたものなのです。それが、アルゼンチンに伝わってタンゴで弾かれるようになり、いまでは、タンゴの象徴的な楽器となっています。
そのタンゴですが、1950年代が流行のピークで、1960年にビートルズが登場したことにより、それまでの音楽は一気に廃れてしまいました。それによって、仕事が急減し、多くのバンドネオン奏者は廃業してしまったのです。ですから、僕がバンドネオンに目覚めた1980年代には、それで食べていけるのは、日本に3人くらいしかいないという状況にまでなっていました。
周りの大人たちが僕をバンドネオン奏者に仕立て上げようとしたのは、タンゴを取り巻くそのような背景もあったわけです。
――演奏技術は、どのようにして身に付けたのですか?
【小松】周りはもちろん、日本全国を見渡してもバンドネオンを弾ける人がほとんどいませんでしたから、独学するしかありませんでした。元来、型にはめられるのが苦手な性格だったので、これは自分に合っているかもしれないと思いましたが、いかんせん、指導者がいないので、勉強するにもどこから手を付けていいのか、さっぱり分かりませんでした。
一般的に、楽器はピアノだと左から右に、ギターだと外側から内側に行くと、音が高くなります。ところが、バンドネオンは、右に38、左に33のボタンがあり、それらはパソコンのキーボードがABC順に配置されていないのと同じように、音階が無秩序に配置されているのです。だから、まずどこを押すと何の音が出るのかを覚えるところから始めました。それが分かったら、今度は自分が知っているメロディーを弾くというように、手探りで覚えていきました。
また、両親がタンゴミュージシャンだったので、アルゼンチンで活躍しているバンドネオン奏者とも知り合いでした。そこで、その方が来日したときに、個人レッスンをしていただきました。ワンポイントレッスンなので、「これはいい」「それはよくない」と言われたことを胸に留めておき、後で練習するとき、「あの人が言ったことは、こういうことではないか」と意識しながらやっていました。何度か会っているうちに親しくなり、最新の教則本のコピーを持ってきてくれたこともあります。それを見て、「本場の人は、こういう教育を受けているのか」と推測しました。
いずれにしても、たまにレッスンを受けるとき以外は何も基準がないので、練習してもそれが自分にとって十分な努力なのか分からなかったし、上達しているのかどうかも分かりませんでした。ただ、どうやったら上手くなれるだろうかと、つねに考えていましたね。
――高校時代は、バンドネオンにどっぷり浸かった生活だったのですか?
【小松】すでに仕事を始めていましたから、文字通り、「明けても暮れても」でしたね。音楽をやっているから勉強をしなくていいということにはならないのですが、華やかな世界に魅せられ、しかもお金ももらえたので、完全に取り憑(つ)かれてしまっていました。
当時はとにかくバンドネオン奏者がいなかったため、ライブもあれば、スタジオ録音もあり、またあるときは、アマチュアバンドから「エキストラで入って欲しい」と声を掛けられたり、「うちバンドネオン(奏者)が病気になったから代役で出て」と頼まれたり、引く手あまたでした。そのため、学校を早退して仕事に行くほどで、修学旅行にも行きませんでした。
そんな状態でしたから、担任の先生から職員室に呼び出されて、「お前、学校に何しに来ているんだ?ここは音楽学校じゃないんだぞ」と説教されました。今でも、先生には迷惑をかけたなという思いでいっぱいです。
――プロとしてやっていくために、そこで得たものも多いのでは?
【小松】あの頃があるから、今の僕があるといっても過言ではありません。というのも、仕事は、ライブやスタジオ録音もありましたが、夜のお店で演奏する仕事もかなりありました。
夜のお店ではお酒が入りますから、こちらのお客さんは大人しく聴いてくれているけれど、向こうのお客さんは騒いでいるということが、当たり前のように起こります。そんなときは、酔っ払っているお客さんが、「いい音だな、聞いてみようぜ」と思うような演奏をするしかありません。そのテクニックを、僕は夜のお店で身に付けてきたという自負があります。
音楽に限らず、教育はもちろん大事です。だけど、教育が行き届いていれば、逆に失われるものもあると思います。どういうことかというと、音楽学校に行ったり、先生についたりして勉強できる環境にいると、夜のお店で演奏しようという気持ちにはならないですから。必然的に、お客さんを振り向かせる演奏を身に付ける機会が失われるわけです。
僕は、バンドネオンを学べる学科がなかったので大学には進学しませんでしたが、アカデミックな教育を受けながら、実地で人を振り向かせるテクニックを磨くのが理想的だと思います。
道がないから自分で考え、行動して、名声を勝ち取ってきた。
その果てしない情熱は、作曲家という新たな地平を拓く。
――高校を卒業してから24歳でデビューするまで、どのような活動をされていたのですか?
「江古田Buddy」にて。>
【小松】高校を卒業したら、以前にも増して仕事が入ってきました。その分、収入も増えましたが、タンゴはマイナー音楽でしたから、「今は食べて行けているけれど、将来はどうなるんだろう」という不安が、つねに付きまとっていました。
実際、コンサートのお客さんは、ビートルズ世代より上の方たちが中心でしたから、20年後はコンサートに足を運ばないだろうと容易に想像できます。ではどうすればいいか?と、自分に問いかけ、出てきた答えは、自分と同世代のファンを増やすことでした。
そこで、ジャズやポップスのライブハウスに殴り込みをかけようと思いました。情報誌『ぴあ』を買ってきてライブハウスの電話番号を調べて、片っ端から電話しました。「タンゴを演奏させてもらえませんか?」と聞くといきなり切られたり、「バンドネオンって何ですか?」と言わたりもしましたが、それでもめげずに電話するうちに、あるお店から出演OKの返事をもらうことができたのです。そこで、細々と演奏するようになったのですが、当初、15人くらいのお客さんに対してバンドのメンバーが5人いたので、僕が自腹を切ってメンバーにギャラを払っていました。そのような活動が2年くらい続いたのですが、パソコン通信の時代に入り、状況が大きく好転しました。
誰かが、「小松亮太」というコミュニティをつくっていて、そこから情報が広まったのです。そのおかげで、ライブハウスに来てくれるお客さんが日を追って増えました。そんなある日、ソニーから、「うちからデビューしないか?」と声を掛けてもらったのです。さらに、90年代後半、リベルタンゴという曲が洋酒のコマーシャルに使われたことも、僕にとっては追い風になりましたね。
――演奏するときに、いつも心がけていることはありますか?
レコーディングメンバーと。>
【小松】1980年代の最悪な状況からすると、タンゴを取り巻く環境はかなり良くなったと思います。とはいえ、まだまだ演奏者は少なく、つねに「自分がタンゴを守る」という意気込みで演奏に挑んでいます。
もしそこで、僕が期待を裏切るような演奏をしてしまったら、そのお客さんは、もう一生タンゴのコンサートに行かないかもしれないし、CDも聴かないかもしれない。だからこそ、「タンゴってこんなに凄かったんだ」「どうして今まで知らなかったのか」と感じてもらえるような演奏をやらないといけないし、僕はそういう立場にいるんだと肝に銘じています。だから、90点以上の演奏をしなければいけない。70点の演奏ではダメなのです。
よく妻からは、「そんなに力を入れなくてもいいのに」と言われます。確かに、もう少し力を抜いた方が、いい演奏ができるのかもしれません。だけど、せっかく来ていただいたお客さんに最高のパフォーマンスを見てもらいたいから、つい全力で挑んでしまうのです。
――映画『グスコーブドリの伝記』で初めて映画音楽を担当されましたが、いかがでしたか?
また、今後のビジョンを教えてください。
【小松】今回は演奏だけではなく作曲全部で、しかも映画のための音楽づくりだったので、最初はどうすればいいのか見当がつきませんでした。というのも、単に演奏の質が高ければいいというのではなく、映画とマッチした音楽でなくてはならないからです。
当然、初めは手探りで、難しいなとプレッシャーを感じていました。そうして、次第に感覚をつかめるようになると、「自分にこんな音楽性があったのか」と思うようなメロディーが次々と湧き、それからは気持ちにゆとりをもって、楽しみながら進めることができました。
今回は、これまでとまったく違う方法で、しかもタンゴという枠を超えて、自分の音楽を届けるチャンスをいただいたことで、新たな可能性を見出すことができました。これを契機に、「小松亮太はバンドネオン、タンゴに収まりきらない作曲家」と言ってもらえるよう、行動を起こしていきたいと思っています。
――最後に、中高生にメッセージをお願いします。
【小松】これだけ情報があふれていると、自分にぴったりの職業を見つけるのは、簡単ではないと思います。だから、「見つからない」という人の気持ちが分からなくはありません。
もし、自分がやりたいことが見つからなかったら、困っている人を助けるために行動を起こしてみてください。そうしているうちに、やりがいを感じる仕事に出会えると思います。
僕自身、バンドネオンをはじめた理由の一つに、タンゴというマイナーな音楽を、もっと多くの人に聞いてもらいたいという想いもありました。タンゴを助けたいと。だから、高校を卒業して将来に不安を感じたとき、なりふり構わず、できることはすべてやってきました。現在、世界中でバンドネオンを始める人が増えてきていますが、皆、僕の名前を知っているそうです。それを聞き、タンゴを守るために自分が踏ん張らなくてはと、想いを新たにしました。
だから、たとえ今やりたいことがなくても、誰か(何かの分野)を助けることに使命感が得られれば、喜びを感じながら働くことができると思います。
- No.39 大九明子さん
- No.38 はまのゆかさん
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- No.35 小松亮太さん
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