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著名人インタビュー この人に聞きたい!
おかひできさん[映画監督]
1966年広島県生まれ。
大阪芸術大学映像学科卒業後、助監督として数々の作品に携わる。97年より、円谷プロ作品に参加。『ウルトラマンダイナ』以降、数々のウルトラマンシリーズを経験する。以降、フリーランスの監督・助監督として幅広く活躍している。
監督作品としては、『魔弾戦記リュウケンドー』(06)、『トミカヒーローシリーズ」(08~09)、『ウルトラ銀河伝説外伝 ウルトラマンゼロVSダークロプスゼロ』(10)などがある。映画監督としてのデビュー作『ウルトラマンサーガ』では、「ゆうばり国際映画祭ファンタランド大賞」を受賞。
順風満帆でもなければ、遠回りでもない。目指す道を、愚直に歩んできた映画監督おかひできさん。ご本人曰く、「僕は器用ではないですから」。純粋なのだ。
「この仕事は自分に向いている。楽しい」と笑う。自分に合った職業を見つけるのは簡単ではないけれど、これぞと思うそれに出会ったら、あとはひたすら前進あるのみ。ポイントは、「目の前のことに一生懸命になる」こと。人から認めてもらうのに、ウルトラCはない。
取材日:2012年3月/取材・文 野口啓一
おかひでき監督作品
ウルトラマンシリーズ最新作映画
『ウルトラマンサーガ』(2D・3D同時公開)
2012年3月24日公開
=> http://www.ultramansaga.com/
(C)2011「ウルトラマンサーガ製作委員会」
[INDEX]
●第1章 弱者を守るとき、人は初めて強くなれる。
初めての人にも、往年のファンにも楽しめるウルトラマン映画を3Dで撮影。
――映画『ウルトラマンサーガ』の見どころを教えてください。
【おか】ウルトラマンを初めて観る方も、十分理解して楽しんでいただけるように作りました。タイトルでもあるウルトラマンサーガとは、ウルトラマンゼロ、ウルトラマンダイナ、そしてウルトラマンコスモスの心が一つになったときに現れる、いわば超・ウルトラマンのことです。そのうちのダイナとコスモスは、それぞれ15年前、10年前のTVシリーズで主役のヒーローでした。今回の映画は、そのとき主演だった役者さんを同じ役としてお招きしています。当時のファンの方にも喜んでいただける要素もたっぷり盛り込みました。
つまり、ウルトラマンを初めてご覧になる方も、旧来のファンの方も楽しめる裾野の広い作品になっているんですね。フル3Dカメラで撮影された迫力のある映像も大きな見どころですので、ぜひ映画館でご覧になってください。
――作品には、どのようなメッセージが込められているのでしょうか?
【おか】昨年、日本は東日本大震災という、未曽有の苦難を経験し、その爪痕は今もなお生々しく残っています。そこから一日でも早く立ち直るのに、ウルトラマンという長い歴史を持つキャラクターが世の中のお役に立てないか、という想いがスタッフの間に強くありました。
とても困難な状況に陥ったとき、一人では心が折れそうになるかもしれないけれど、そこに「自分より弱い人がいて、その人を守らなければならない」となったときに、人は初めて強くなれるのではないかと思い、それをウルトラマンの物語を壊さないようにしながら醸し出して行けるようにつくりました。
――3D と2Dは、どのような楽しみ方をすればよいですか?
【おか】中高生の方はお小遣いが大変かもしれませんが、できれば2Dと3Dの両方を観ていただけると嬉しいです。観る順番としては、まず2Dでストーリーを楽しみ、次に3Dを観るといいと思います。先にストーリーが頭に入っていると、ダイナミックな映像に意識を集中できるからです。
子どもながらに、「自分は何者で、何になるのか」と問いかけていた。
――ご両親は、どのような方でしたか?
【おか】父は信用金庫に勤め、最終的には理事になるほど仕事に情熱を傾けた人でした。「○○らしく」という言葉を好んで使っていて、人に迷惑をかけてはいけないとか、やると決めたら最後までやりなさいとか、何から何まで厳格でしたが、同時に愛情深くもありました。海でおぼれる子どもの命を助けて、でも2年もしたらそのこと自体忘れてる、そんな人です。
これは僕が映画に興味を持ち出した頃に教えてもらった話ですが、父も少年時代、映画に傾倒していたようです。ただ兄弟も多く、家計の苦しさを考えると親に映画を観に行かせてくれと言い出せなかった。そこで廃材を拾ってきて看板をつくり、近所の映画館に、「家の前にこの看板を何枚か置くから、毎週ポスターを張らせてくれ」と交渉しに行ったそうです。それで映画のチケットをもらい、鑑賞していたという話を聞いたときには、父にそんな歴史があったのかと本当に驚きました。一言でいえばリアリストの皮をかぶったロマンチストなんでしょう。
母はあらゆる生き物に深い愛情を注ぐ慈愛の人でした。他人の痛みが我慢できないタイプというんでしょうか。そして、エネルギッシュというか表現過多というか、とにかく喜怒哀楽が激しい人なんです。例えば、マッチ売りの少女などの絵本を読み聞かせするとき、猛烈に感情移入してしまって、必ず毎回泣くんです。それも号泣。僕にもそんな部分があるのですが、間違いなく母の気質を受け継いでいますね。
――子どものときは、やはりウルトラマンに夢中になったのですか?
【おか】もちろんです。ただ、小さい頃は表面的な部分しか観ていませんでした。その後、小学校高学年のときにリバイバルブームが到来したんですが、そのときは再放送をつぶさに観察し、この怪獣にはこんな話がくっついていたのかと、背景にも興味を持ち、メモを取りながら見ていました。
あの頃は、クラスの男子の多くが熱狂していたと思いますが、その中でも、僕は飛び抜けて夢中になっていたんじゃないでしょうか。他にも同じような男の子向けの番組は見ていましたが、ウルトラシリーズは別格で、子ども番組を超えた質の高さを備えていると感じていました。
――小学生の頃は、将来について考えていましたか?
【おか】小学4年生までは、取り立てて自分はこれが得意だというものを見い出せず、子どもながらに、自分は何者で何になるんだろうと、ずっと思っていました。小学5年生になり、社会の授業で歴史を習い始めたのですが、日本史は好きでしたね。このころ、将来の夢をつづった紙を詰めたカプセルを校庭に埋めたんですが、歴史の先生になりたいと書いた記憶があります。
同じころ、学習雑誌で、スペインにあるベンポスタという名前の共和国が紹介されている記事を読みました。そこに住んでいるのは子どもだけで、政府も産業もあり独自の通貨まで持っている。サーカスを興行しながら、世界中を回っているとも書かれていました。それを見て僕は、直情的に「自分もベンポスタに行こう!」と決心したんです。翌日、渡航資金を貯めるために、新聞配達のアルバイトをはじめました。
もちろん、それはすぐに親にばれるんですが、父は、「自分で決めたことだから責任を果たせ」とアルバイトをすることを許してくれました。スペインへ行くという夢は、しばらくしたら覚めてしまったのですが、新聞配達は高校3年まで続けました。使うあてのなくなったアルバイト代はそのまま貯めて、その後、映画にのめり込んでいく中で、大きな元手となりました。
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