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著名人インタビュー この人に聞きたい!
野口健さん[アルピニスト]
1973年、アメリカ・ボストン生まれ。幼少時代の大半をエジプト、イギリスなど海外で過ごす。高校1年の停学期間中に、冒険家・故植村直己氏の『青春を山に賭けて』に感銘を受け、山の世界へ。高校2年の夏休みにモンブラン登頂成功、19歳で5大陸最高峰を登頂。1999年5月、25歳でエベレスト登頂に成功し、当時世界最年少で7大陸最高峰登頂を達成。その後、エベレストのゴミ問題を解決するため、2000~2003年の4年連続で清掃登山に尽力。また、シェルパ(登山隊の案内人・荷役人)の遺族を補償するための「シェルパ基金」の設立、環境教育の重要性から「野口健 環境学校」を開校するなど、登山を通じた社会貢献活動を精力的に行なっている。現在は、「富士山から日本を変える」をスローガンに、環境行政の不備と、自然保護の新たな枠組みを伝えるため、講演活動で全国を奔走している。2007年植村直己冒険賞受賞。著書に、『落ちこぼれてエベレスト』(集英社インターナショナル)、『あきらめないこと、それが冒険だ』(学習研究社)*第53回青少年読書感想文全国コンクール課題図書 などがある。
有名人はみんな順風満帆に生きているかというと、そんなことはない。人それぞれ、想い悩み、成長しているのだ。アルピニストとして数々の実績を持ち、現在、エベレストや富士山での清掃をはじめ、さまざまな社会貢献活動を率先して行っている野口健さんも、少年時代はありあまる若いエネルギーを持てあましていた一人なのだ。では、どのようにして道を見出し、今の仕事に至ったのか、野口健さんの多感な10代を振り返っていただきました。
取材日:2008年10月/取材・文 野口啓一
[INDEX]
- 第1章 山は、落ちこぼれていた自分の存在意義を確かめる手段だった
- 第2章 山に登ることよりも、山を舞台に何かを表現していきたい
- 第3章 やると決めたら、実現するまでなりふり構わず、格好つけずに、とにかくやること。
●第1章 山は、落ちこぼれていた自分の存在意義を確かめる手段だった
外交官の父と現地を見て回り、世の中の現実を知る
――お父さんが外交官だったため、外国暮らしが長いですね。少年時代に外国を見ることで、野口さんの考え方にどのような影響がありましたか?
【野口】教育に関して、父はあまりとやかく言いませんでした。ただ、海外にいるときは、仕事で現地を見て回るときに、よく僕を連れて行きましたね。というのも、外交官が途上国などに赴任すると、仕事の一つにODA、つまり援助活動があるのですが、父はそれを決める立場にありました。内容は、困っている人を助けることもあれば、あるいは国家間の援助をすることもあります。当然、税金を使うわけですから、日本の国益につなげることも考えなくてはなりません。ところが、そのような仕事に慣れてしまうと、素人的な見方をしなくなり、何が大事なのか見えにくくなるって言うんですよ。そのため、「おまえは素人なんだから、一緒に回って何が一番気になったか教えてくれ」と。また、父はよく「政府からお願いされるものが、必ずしもその国の人たちのためになるとは限らない」とも言っていました。中には不正を働き、自分のポケットに入れる者もいるからです。それで、その国に本当に必要なものを自分の目で確かめるために、現地を見て回るのです。そのお供として、父とはいろんなところに行きましたが、何よりも、ここで僕を使ってくれたことがうれしかったですね。
たとえば、僕が高校生の頃、父がイエメンに赴任して真っ先にやったのは、2人でイエメン中を旅したことです。その際、大使の車だと大きくて旗がついているためすぐに分かってしまうので、小さいクルマを買って目立たないようにして回ったんです。そうして、イエメンの救急病院に行ってみると、救急車がないんですよ。救急車があれば、中で応急処置ができるんですけど、それができない。だから、タクシーや自分の車でけが人や病人を運んでくるんですけど、病院に着く頃には亡くなっている人が多くてね。首から血がぴゅうぴゅう噴き出している人がそのまま運ばれてきて廊下で死ぬ人もいて、ほとんど野戦病院なんです。観光ではまず見ない世界ですよね。父とそれを見て、2人でショックを受けて帰りました。夜、父が「この国には何が必要かな」と聞いてくるから「救急車じゃないか」と答えると、「日本の救急車を50台入れるか」と言って、父はそれを外務省に提案するわけですよ。だから、子どもの僕からすると「俺の意見が通った」と(笑)。
他にも、小学生のときエジプトに住んでいて、イスラエルに行きました。そこは、ユダヤ人の居住区とアラブ人の居住区が分けられていて、ユダヤ人の街はきれいで、アラブ人街に行くと汚いんですよ。僕はそこで、貧富の差を目の当たりにしました。また、タクシーに乗ると、ユダヤ人の運転手がね、「アラブ人をぶっ殺すぞ」と平気で言うんですよ。憎しみがものすごいんです。これがイスラエルとアラブの問題かと身にしみて感じました。
また、中学に入ったとき、父がドイツのベルリンに赴任したんです。当時はまだ東ドイツと西ドイツを隔てているベルリンの壁があったのですが、まず西ベルリンのホテルに2人で4、5日滞在したんです。普段、父はケチなんですけど、このときは高級ホテルに泊まり、豪華な食事をとりました。5日後、今度は東ベルリンに行くんですよ。当時、外国人は地下鉄で壁の向こうへ行けたんですが、壁1枚ですからすぐそこです。ところが、ものすごく貧しいんですよ。たった壁1枚で隔てられているだけなのにこんなにも違うのかと、子どもながらに驚きました。あとになって気づいたのですが、このギャップを体感させるのが父の目的だったんですね。
このように、小学生のときから、何かテーマのある旅、肌で感じる旅を父とよくしていました。一方、遊園地のように、レジャーでどこかに連れて行ってもらった経験はないですね。
一家団欒は、恐怖のディベート・タイム
――著書の中に「うちは一家団欒ではなくてディベートなんだ」というくだりがありましたが、自分で考えさせるというのが、お父さんの教育方針だったのでしょうか?
【野口】あれはたぶん頭の体操だったと思いますが、子どもの頃は食事の時間が恐怖でしたね。家族4人で食事をとっていると、父が、何かテーマを出すんです。それに対して、「おまえらはどう思うんだ」と来るわけですよ。子どもにとってまったく興味のない話のときもあります。兄がまず聞かれるんですが、兄は結構勉強ができたんで賢く答えるわけですよ。次に、「で、健は?」と聞かれ、「おれはどうでもいいと思っているよ」と適当な返事をすると、父が「おまえには考えがないのか」と。いきなり振られるから乱暴な話なんですけれども、「いや、ない」と言うと、「考えがない男とは飯を食いたくないから部屋へ持って行け」と言われ、仕方ないから部屋で一人で食べるわけですよ。
次第にこちらも作戦を練るようになり、兄の考えと同じというと「本当にそう思っているのか?」と突っ込まれるので、兄と反対のことを言う努力をしたんです。「いや、僕は違うよ」と。そうしたら存在感を認められるわけですよ。もう大変でしたね。とっさに違うことを考えて、それを論理的に説明する。そうしないと「なぜ、そう思っているのか?」と突っ込まれるので。食事のときは本当につらかったですね。それはクセのようなもので、いまだにそうですよ。たまに父と食事すると、「で、おまえ、どう思うんだ」と。「あ、また来た」と(笑)。
報道カメラマンと軍人と登山家の間で揺れた心。
――中高生の頃、将来、こんな仕事をしたいという想いはありましたか?
【野口】小学校のときに、西田敏行さんの「池中玄太80キロ」というドラマを見て、報道カメラマンに憧れました。中学校では写真部に入って以来、写真はずっとやっていました。あと、祖父が軍人だったこともあり、自衛隊員にも興味がありました。高校のとき、ちょうどPKO法案が成立して湾岸戦争があった頃で、国際的に活躍するのに自衛隊もありだなと思ったんです。ですから、日本に帰国したときは、千葉にある空挺部隊を見に、しょっちゅう通ってましたね。さらに、高校に入ってから山に登りだすと登山家にも憧れ、すごく葛藤するんですよ。
――登山に出会った経緯を教えてください。
【野口】きっかけは、植村直己さんの『青春を山に賭けて』に出会ったことです。僕は、中学高校はイギリスで全寮制の学校に通っていたんですが、成績が悪くて、高校に上がるときは仮進級だったんです。先生は「お前もやれば勉強できる」と言うんですけど、できないものはできないんですよ。本当に。だから、そうは言っても、という思いがあって、勉強に関しては早々に見切りをつけてしまったんです。
だからといって、苦痛なまま高校生活をやり過ごしたくないから、何か他のことをしなきゃいけないと思うわけですよ。でも、その何かが見つからない。その焦りと劣等感でどんどん落ち込み、エネルギーのほこ先をどこに向けたらいいかわからない。だから、暴走しちゃうんですよね。それで喧嘩して自宅謹慎になったんです。
自宅謹慎なので本当は家にいなければいけないのですが、父が「勉強ができなくてイライラして人を殴ったお前が1カ月も家に閉じ込められているのは逆効果だから、どこかへ行ってこい」って言うんですよ。そう言われても自宅謹慎ですからね。学校から頻繁に電話だってかかってくるし。すると父は、「あのな、おれは外交官だ」と。「外交官っていうのは、人をだますのが商売だから任せとけ。俺が学校を騙すから、どこか行ってこい」と言われ、それで旅に出たんです。
そうして放浪しているときに、たまたま立ち寄った書店で偶然手にとったのが『青春を山に賭けて』だったんです。当時は、山なんか全く興味なかったんですけどね。ただ、僕の周りで登山をやっている人はいなかったので、自分の存在意義を確かめる手段として傾倒していったのです。
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