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著名人インタビュー この人に聞きたい!
中村憲剛さん[プロサッカー選手]
1980年東京都生まれ。小学校1年生から府ロク少年団で本格的にサッカーを始める。5年生の時、全日本少年サッカー大会でベスト16。東京都選抜にも選ばれた。久留米高校(2007年度より東久留米総合高校)では、高校選手権東京都大会ベスト4。その後、中央大学に進学。大学時代は関東リーグ2部降格の屈辱を味わったが、主将として臨んだ4年生の時に2部で優勝し、1部復帰を果たした。2003年に川崎フロンターレへ入団し、シーズン開幕戦のサンフレッチェ広島戦でデビュー。入団当初は攻撃的なミッドフィルダーだったが、2004年に監督の提案でボランチへコンバートされて以来、チームの攻守の要として活躍している。日本代表に就任したオシム監督のもと、日本代表メンバーに初選出され、2006年10月にガーナ戦で初出場を果たし、インド戦で代表初ゴールを記録した。175cm、66kg。
好きなことがあれば、夢も目標もいらない。純粋にそれを楽しみ、追求していけば、道は自ずとできるのだ。プロサッカー選手・中村憲剛さんは、天才でもなければエリートでもない。それを自分で分かっていたから、プロという高い頂に背伸びして挑むこともしなければ、日本代表という雲の上のポジションを勝ち取るべく過剰な自己主張もしてこなかった。ただひたすら、目の前にある課題を1つずつクリアし、着実に技術を極めてきた。その延長線上に、プロがあり、日本代表の座があっただけなのだ。そんな中村選手の礎になっているのが、子どもの頃、親に言われた「全部自分にはね返ってくる」という言葉にほかならない。
取材日:2009年8月/取材・文 野口啓一
[INDEX]
- 第1章 「全部自分にはね返ってくる」から、自分を甘やかさない
- 第2章 高校も大学も、とことんサッカーができる環境を求めて
- 第3章 実現できるか分からない夢を持つよりも、目前の課題を解決する方が意味がある
- 第24章 川崎フロンターレ:中村憲剛選手 ワールドカップ帰国後コメント
●第1章 「全部自分にはね返ってくる」から、自分を甘やかさない
サッカー三昧だった小学生時代。将来の夢は、もちろんサッカー選手
――小学1年生の時からサッカーをやっているんですね?
【中村】幼稚園の友達が、サッカー教室に通い始め、一緒に行くようになりました。ちょうどワールドカップをやっていて、すごいなーと感動したのは覚えていますが、当時は特にサッカーに興味があったというわけではありません。親の話によると、バットを持つのよりもボールを蹴っている方が好きという程度だったようです。
いざ通い始め、練習したときの気持ちは、小さかったときのことなので覚えていません。両親によると、結構ウキウキしながら通っていたようです。でも2年生のときに、多分気まぐれだと思いますが、一度いきなりつまらなくなり、「やーめた」となったことがありましたね。その後、すぐまたやりたくなってやりましたけど。
学校以外の時間は、サッカー三昧でしたね。平日は練習して、土日に試合をやっていました。大会の時は別ですけど、20分ハーフの試合で、多いときは1日5試合、平均して3試合くらいはやってましたね。小さい頃は体力あったんでしょうね。今考えると、自分でもよくやってたなあと思います(笑)。
――小学校の卒業文集に書いた将来の夢は、やはりサッカー選手?
【中村】「サッカー選手」って書きましたね。俺が通ってた府ロク少年団は、俺が入る以前から強くて、府中市内だけではなく、東京でも有名でした。そこで小学1年から6年生まで6年間もやって全国大会にも出ました。それくらい、サッカーに対する想いが濃かったんで、自分の人生からサッカーは切り離せないと思っていました。
また、ちょうどJリーグができる前年で、そういう動きがあるという話も耳に入ってきていたので、大人になってもサッカーを続けられればいいなと。その時は、プロサッカー選手になりたいというよりも、ずっとサッカーができればいいなという感じでした。
中学に入って弱小チームにやる気を失うも、やっぱりサッカーが好きだと再起
――中学に入ってからは、学校の部活でサッカーを続けたんですか?
【中村】1年生のときは部活には入らず、府中に新しくできたクラブに通っていました。そこは、新規チームでレベルも高くありませんでした。小学生のときは、全国大会に出るようなチームでレベルの高い練習をし、そこでレギュラーをやっていました。だから、サッカーに対する情熱がもすごかったんです。それが、地区大会でさえ勝てるかどうかっていうチームに行くわけだから。また、俺は、小学生のときは小柄で、クラスで整列すると前から2番目でした。でも、すばしこかったからドリブルでスルスルッと相手選手をかわしてゴールに向かって行ってました。ところが、中学生になると勝手が違ってうまくいかない。
そんな風に、チームのレベルにも納得できず、自分も満足できるプレーができない。だから、それまでとのギャップに相当苦しみました。普通の中学生だし、器もでかくないから、気持ちがどんどん落ちていって、それで半年くらいでやめちゃったんですよ。燃え尽き症候群のような感じでしたね。
中学の友達からは「サッカー部に入れよ」と言われたんですけど、最初は府中のクラブに入っていたし。府中のクラブチームを辞めてからも誘われましたけど、しばらくふわぁーっとした生活を送っていましたね。振り返ってみると、小学1年生でサッカーを始めて以来、サッカーから離れたのは中学1年生のときの半年くらいですね。ただ、その間もボール蹴るのはやめないで、友達と蹴っていましたけどね。
――またサッカーをやりだしたのは、どうしてですか?
【中村】2年生になってから、結局やっぱり自分にはサッカーしかないってことが分かって。自分のプレーがうまくいってなかったときは壁にぶち当たっていた時期で、自分はまだそれくらいの選手でしかないんだと思うようになったら、ジレンマもなくなりました。
そうやって、客観的に見ると自分のプレースタイルにも変化が生まれました。それまでは、すばしこかったんで自分はドリブラーだという意識が強かったんです。ところが、中学生になると上級生は大きいし、足も向こうの方が速いので、パスで勝負するようになりました。そういうのを覚えながらやったので、それはそれで楽しかったです。
でもこの頃は、サッカーは好きでしたが、将来サッカーに関する仕事をするなんて到底無理でした。だから、サッカーの強い高校に行って、もう一度チャレンジし、サッカーを続けていくことしか考えてなかったです。自分には他に何が向いているだろうとか、将来に向けて他の選択肢は何も考えていませんでした。
――ちなみに、勉強は好きでしたか?
【中村】もともと、両親は「勉強しろ」とそんなに口うるさく言う方ではありませんでした。ただ、「やりたくなければやらなくてもいいけど、その分全部自分にはね返ってくるぞ」と言われました。だから、逆にやらなきゃいけなかったというか。そういう感じです。そのため、小学生の頃は成績があまりひどくならない程度に勉強していました。中学に入ると、入学して最初のテストで英語で100点を取ったことから、英語が好きになりました。以来、英語の成績は良くて、通知表はいつも4か5でしたね。一方、数学はてんでダメでしたね。全然分からなくて、面白くなかった。今でも見たくないです(笑)。
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