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著名人インタビュー この人に聞きたい!
おかひできさん[映画監督]
[INDEX]
- 第1章 弱者を守るとき、人は初めて強くなれる。
- 第2章 スターウォーズが運んできた、「映画監督」という夢。
- 第3章 「創るだけで楽しい」から「職能人として映画に関わりたい」へ。
- 第4章 多くの人に喜んでもらえる仕事であることが、僕には向いているし、楽しい。
●第2章 スターウォーズが運んできた、「映画監督」という夢。
映画に夢中になり、読書にふける日々が、映画監督の素地をつくる。
――中学時代は、どのような生活をされていたのですか?
【おか】中学1年生の7月に、僕の人生を方向づける決定的な出来事がありました。映画『スターウォーズ』を観て、将来は映画監督になろうと決意したんです。それまでも映画は、ゴジラや東映まんがまつりなどは観に行っていたし、両親に連れられて洋画を観に行ったりもしていました。そんな中で、スターウォーズは、僕にただならぬインパクトを与えました。
当時の映画館は入替制ではなかったので、朝一番で入場して一日中いると、3、4回観ることができました。何度観ても飽き足らず、その夏だけでスターウォーズを12回か13回観ました。
このとき、中学から高校にかけて、成人映画以外、自分の近所の街で上映されている映画はすべてみようと決めたのを覚えています。あの頃は、とくに好きだったSFやアクション映画をはじめ、まさに浴びるように観ていました。
――本は、読まれた方ですか?
【おか】こちらも、中学1年の夏休みに、大きな出会いがありました。西村寿行の『滅びの笛』という小説を読んで、強烈な読後感に包まれました。同時に、中学1年生の自分にも大人の小説を味わえることが分かり、以来、乱読するようになりました。その過程で、翻訳ものは自分には馴染まないことや、文章には人それぞれ個性があることなど、さまざまな発見がありました。最も心にすんなり入って来て、楽しく読めるのが、西村寿行だったのです。
――中学校では、どのような生徒でしたか?
【おか】部活は、テニス部に入っていました。好きな女の子がいたから(笑)動機がそもそも不純ですからさほどテニスには打ち込みませんでした。それよりも、部活が終わったら急いで帰って、再放送のウルトラシリーズを観ることにエネルギーを注いでいたかな。
僕が学校でイキイキとするのは年に2回だけで、文化祭や卒業生を送る会で企画を立てたり、演劇をやったりするときだけでした。自分の内側から湧いてくるものがあり、みんなで打ち合わせするときにそれを開陳して見せていたら、大抵の場合「そんなにやりたいんだったら、お前が仕切れよ」となるわけです。そうなればしめたもので、「年に2回の存在証明」におおっぴらに打ち込める。
授業では、唯一美術が好きでしたが、あとはもう死んだようになっていました(笑)。そんな中学時代でしたね。
「何かを創りたい」。その熱は、受験勉強を放棄し、自主映画制作という行動へ。
――高校に入り、映画への想いはどのように変化しましたか?
【おか】中学からの流れで、テニス部に入部しました。ただ、その部はいつも月が昇るまで練習するため再放送のウルトラが見れない!(笑)、それが不満で早々に辞めました。だからといって何かを始めるわけでもありませんでしたが、映画への想いは募るばかりで、ただ「何かを作りたい」という欲求だけが膨らんでいきました。その発露として、物語であったり、小説の設定であったり、自分が先々作りたいという妄想を、ひたすらノートに書き続けていました。それは、完全なオリジナルというよりは、どこからか持って来た、二次造作的なものばかりでしたが。
一方、映画館通いは高校2年のときがピークで、まるで喉の渇きを癒すかのように通い詰め、年間約120本の映画を観ました。当初の目的とは違いますが、新聞配達で貯めていたお金が大いに役に立ちました。
――このとき、すでに自分の手で何かを作ろうとしていたのですね。
【おか】授業中に西村寿行の分厚い小説を全部ばらして、場面と登場人物、そして物語中の時間を全部書き出して、どう組み替えたら2時間くらいに収まり、面白いストーリーができるだろうかと、夢中になったことがあります。まったく授業聞いてないですよね(笑)。
これは、原作をシナリオにしていく作業なのですが、当時は、そのような意識はなくやっていました。とにかく、何かを作りたかったんです。新聞配達のときもそうでしたが、自分が決めたことについて、何が何でも実現したいという、強い願望があったんだと思います。僕は、不器用だと自分で思うのですが、ひとたび決めてしまうと延々とそれを引きずってしまい、何かを形にするまで、容易に方向転換ができないんです。
――進路については、どうされたのですか?
【おか】高校入学直後から、映画の勉強ができる学校に進もうと決めていました。当時、そのような勉強ができる学校といえば、日本大学芸術学部か大阪芸術大学しかなく、そのどちらかに進みたいと思っていました。
にもかかわらず、勉強はまったくといっていいほどやりませんでした。とくに高校3年のときは学業放棄のピークの時期で、授業こそ出ていたものの、「中学高校の6年の間に自分で映画を作りたいと思っていたのに、まだ何もできていない」という、焦りにも似たものがありました。そうして、今やるしかないと決心し、8ミリカメラを手に入れ、特撮映画を撮りはじめたのです。高校3年の1年間は、映画づくりに没頭し、大学に進学したいという思いとは裏腹に、受験勉強にはまったく、まったく、まったく手をつけませんでした。
――自主映画は、どのような作品だったのですか?
【おか】ウルトラセブンのパロディーで、『学園セブン』(笑)。さすがに時期が時期でしたので役者をやってくれる人がおらず、また、面白そうなことやっているなと近寄って来ても、カメラを向けられると恥ずかしくて、みんな逃げるんですよ。結局、主役は自分でやり、おまけにヒロインも自分でやりました(笑)。つまり、一人二役です。
技術的な部分では、カメラに詳しい友達などが集まって来て、助けてくれました。一緒に試行錯誤し、失敗してフィルムをたくさん無駄にしましたが、経験したことで、何となく撮影の基本みたいなものがほの見えてきました。最終的に、30分の映画ができました。
――仲間内で上映会をやったのですか?また、受験はどうなったのですか?
【おか】できた作品は、学校から許可をもらって、視聴覚教室で上映しました。それが、共通一次試験(現センター試験)の当日でした。だから、国公立を目指している友達は来ませんでしたが、それ以外の友達が集まり、やんやの喝さいの中、上映を行いました。一つずつ経験しながら、「何かつくりたい」という想いを形にできたことは、自分なりに満足でした。
学校の成績は、言うまでもなく目も当てられないことになっていました。とはいえ、当時の大阪芸術大学の入学試験は、面接と論文と絵コンテという一風変わった試験だったおかげで、合格することができました。
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