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著名人インタビュー この人に聞きたい!
おかひできさん[映画監督]



第3章 「創るだけで楽しい」から「職能人として映画に関わりたい」へ。

勝手気ままに街に出て映画を撮っていた学生時代。

――大学ではどのようなことを学んだのですか?

【おか】大阪芸術大学も、今はカリキュラムがしっかりしており、学生たちが作った映画が国際映画祭に出品できたり、劇場公開できたりするレベルのものを制作していると思いますが、当時は野放しでした。

大学では、日本映画の歴史を知っている素晴らしい教授陣が授業をなさっていたのですが、僕らはその価値すら分かっていなかったのです。だから、それさえも聞きに行かず、自分たちで思い思いに街に出て、作品をつくっていました。今思えば、非常にもったいないことをしたと思います。(しみじみ)

1985年(19歳) 大学2年生の頃<1985年(19歳) 大学2年生の頃>
1986年(20歳) 大学3年生の頃<1986年(20歳) 大学3年生の頃>

――就職に際しては、どのような活動をされたのですか?

【おか】僕は性格的に、先のことをどうにかするよりも、とにかく今目の前にあることにしかエネルギーを注げないんです。大学4年のときは、「自分が生きている証をつくるんだ!」という意気込みで、就職活動を後回しにして、卒業制作に全力を注いでいました。

振り返ってみると、自分が好きで映画をつくることと、職能人として映画をつくることが、この時点ではまだリンクしていなかったような気がします。というのも、卒業制作の合間に就職活動を行ったのですが、それはプロの映画監督になるという想いに突き動かされての行動ではなく、大学を卒業するからどこかに就職しなければならないという程度のものだったように思います。結果、辛うじて引っ掛かった東京のコマーシャル制作会社に就職したのですが、そんな心構えでしたから当然長続きはしませんでした。

1987年(21歳) 大学4年生の頃。卒業制作のひとコマ<1987年(21歳) 大学4年生の頃。卒業制作のひとコマ>
1987年(21歳) 大学4年生の頃。撮影したフィルムをチェック<1987年(21歳) 大学4年生の頃。撮影したフィルムをチェック>

社会に出て、いきなりの挫折。原点に回帰すべく、もう一度自主映画の世界へ。

――コマーシャル制作会社では、どのようなお仕事をされたんのですか?

【おか】プロダクションマネージャーといって、映画の世界でいう、助監督と制作部を兼ね合わせたような仕事です。制作全般を下で支えるのが役目で、現場で使うお金を預かって管理して、撮影が円滑に進むようにあらゆる手配をします。そして、できあがった品物を自分で車を運転して、都内各所に納品しに行くんです。この会社に1年と2ヵ月勤めましたが、モノをつくることができさえすれば幸せだった子どもが、つねに結果を要求される大人の社会に放り込まれたときに、スピード感にしても、お金のシステムにしても、そしてコマーシャルの世界そのものまで、あらゆる面で対応がきかなかったんです。

自分を確かめるために自主映画を作ろうと思い、何の当てもなく辞めました。それから、3~4年、社会から距離を置き、自主映画をつくっていました。

――その後、プロとして映画をつくろうと、この世界を目指すのですね。

インタビュー写真:おかひでき

【おか】自主映画の世界では、それなりに評価を頂きました。それが、25、26歳のときですが、そこでプロとして映画をつくりたいという気持ちが湧き上がってきたんです。こうしてお話ししていて自分でも呆れますが、気が付くのがあまりにも遅い!このとき初めて、自分がやりたいことと、「仕事としての映画づくり」がつながったんです。

自主映画で評価されたからといって、いきなりプロの監督になれるわけではないし、また、仕事をするにも、映画業界のシステムがわかりません。そのため、映画の仕事をイチから勉強しようと、色々な撮影所をまわり、助監督になるための就職活動を行いました。そしてやっと、会社に就職するという形ではなく、フリーランスの助監督として、映画やテレビドラマの世界に身を置けるようになりました。

長かったけれど、自分の気持ちを信じて続けた助監督時代。

――監督になるまでには、どれくらいの下積みが必要なのですか?

【おか】映画の撮影現場には複数の助監督がいて、経験や実力によって、チーフ、セカンド、サードと位付けされています。当然、最初はサードからスタートします。撮影現場では、カチンコという「カチンッ」と音がする道具を使って、撮影の開始と終了の合図をするのですが、それはサードの助監督が担当します。最近は、1年半から2年でサードからセカンドに昇格するのですが、僕は器用ではないですから、とんとん拍子というわけにはいかず、6年くらいカチンコを打っていました。

――助監督という下積みの時代が最も大変だと思いますが、そこを生き抜くために必要なことは?

インタビュー写真:おかひでき

【おか】一つは、引きずらないですぐに立ち直ること。ストレスがどんなにたまっても、どんなに否定されても、どんなに寝る時間がなくても、一瞬でも寝てリフレッシュすることができれば、やっていけると思います。

そしてもう一つは、叩かれても叩かれても、自分の気持ちを信じてそこに居続ける、ある種の図々しさも必要です。この世界では、1作品、長くて半年、短いと3日くらいで終わってしまい、その都度結果が出ます。その度に、「今回は勝った」「今回は手も足も出ずズタズタに負けた」と、勝ち負けが積み重なっていくのです。僕は、長らく1勝3敗でした。それが、2勝2敗になり、3勝1敗になり、だんだんと勝率が変わってくるというのが、実体験としてあります。

今の世の中、すぐに結果を求められますが、たとえすぐに結果が出なくてもコツコツと努力を続けていれば、劇的に能力が向上する時が必ず来ます。またその過程で、アイデアの引き出しが増え、確実に対応力も上がります。だから、とにかく一生懸命やること。一生懸命やってもダメだった時、周囲から否定もされるでしょう。でも中には、「おまえはダメだけど一生懸命だけは買っといてやるよ」という人も現れます。その人が、後になって自分を支えてくれる大切な関係に発展していくこともあるんです。簡単ではないし、時間がかかります。でも、その場を一生懸命やり続ける以外に、道はないと思います。