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著名人インタビュー この人に聞きたい!
萩原浩一さん[ラジオDJ&パーソナリティー]
[INDEX]
- 第1章 複雑な環境が醸成した、人を思う心と夢を追う力。
- 第2章 DJ・HAGGYの人間的深みを作り上げた、国家公務員、教員経験。
- 第3章 前進し続ければ、その流れに乗って、夢はやってくる。
- 祝4000回 祝 FM「レディオ湘南」登板4000回(2012年3月30日)
●第2章 DJ・HAGGYの人間的深みを作り上げた、国家公務員、教員経験。
友達へのうらやましさをバネに、働きながら学んだ大学生活。
――大学で教員免許を取りましたが、教師にも興味があったのですか?
【萩原】大学は、日本大学通信教育部の文理学部英文専攻でした。教員免許を取ったのは、中学時代の恩師に僕が通信制大学に行くことを話すと、「現代は、離婚などでお父さん、またはお母さんしかいなくて家庭的に困っている子が多い。君は特異な環境で育ち、子どもたちの気持ちが分かると思うから、ぜひ教員免許を取っておきなさい」といわれ、取ることにしたのです。しかも、英語の先生が不足していると言われ、苦手だったにもかかわらず、英語を専攻したのです。そして、英語と国語の教員免許を取得しました。
でも本当は地理が好きだったので、7年かけて日本大学を卒業した後、さらに東洋大に聴講生として入り、1年かけて社会の教員免許も取りました。
通信教育なので、基本はレポートをやりとりして単位を取得しますが、スクーリングといって、夏期や平日の夜間などに大学に通って授業を受け、試験を受けて単位を取る方法もあります。また地方スクーリングというのもあり、自分が履修している科目の授業があれば、受けに行くのです。札幌、仙台、名古屋、大阪、富山、広島、福岡など、色々な所に行きました。その際、いろんな人と出会えるのが楽しくて、仕事の長期休暇や有給休暇を使ってスクーリングに行っていました。
――著書でも、いくつかエピソードを紹介されていますね。50m走の話とか。
【萩原】そうですね。スクーリングでは体育もあるのですが、あれは50m走の記録会の話です。社員は社長と専務と常務の3人だけという、都内で小さな工場を営む3人のおじさんたちと一緒に走ることになったのです。一列に並んで順番を待っているとき、社長さんが他の二人に向かって、「分かっているな。俺が社長なんだから、俺より先を走るなよ」とささやいていたのです。その3人は40歳くらいで、僕はまだ19歳でしたから、本気で走れば当然僕の方が速いですよね。でも、何だかその社長さんを1番にしてあげたくなり、わざとゆっくり走ったのです。
それを見た教授が「ちゃんとやれ!」と、僕はもう一度走らされたのですが、授業が終わると社長さんがやって来て、「一等にしてくれて、ありがとうな」と、満面の笑みで話しかけてきました。そして、お礼にと、その日の夕食をごちそうになったのです。
このときは、工業高校卒だった3人が40歳までがむしゃらに働き、会社を大きくするために一念発起して、大学で経営を学ぶ姿に、僕自身刺激を受けました。年齢に関係なく、意欲さえあれば学ぶことができるし、目標を持っている人はいくつになっても輝いているんだなと。
――高校時代の部活後のアルバイトも、働きながら学ぶことも、相当強い意思がなければできないと思いますが。
【萩原】子どもの頃、口に出したことはありませんが、やはり両親や兄弟と一緒に生活している友達がうらやましかったですね。でも、求めて得られるものではないので、自分の力で生きて行かなければならないと、精神的には早くから自立していたし、友達には絶対負けたくないという思いは、心の奥の奥で、つねに沸々と湧いていたように思います。きっと、それが原動力になっているんでしょうね。
大学で教職の単位を取るのに、自分が卒業した学校に教育実習に行きますよね。そのとき、普通に大学に進学した、小中時代の友達と一緒になったのです。友達からすると、商業高校に行って就職したはずの僕がいることが不思議でならなかったようで、「どうして萩原がここにいるの?」と驚いた様子でした。僕はあまり泣かないのですが、そのときは、自力で人生を切り拓いて友達に並んだ自信と喜びと、自分へのいたわりから、思わず目頭が熱くなったのを、いまでも覚えています。
人の死と向かい合った、国家公務員の5年間。
――最初に勤めたのは国立療養所でしたが、どのようにして決まったのですか。
【萩原】国家公務員試験に受かり、東京都小平市にある厚生省(当時)管轄の国立療養所(精神科・神経科)で、厚生事務官をやらないかという連絡がありました。電話を取ったのは叔母だったのですが、精神科・神経科と言われ、僕に患者さんの相手が務まるのかと不安になったようです。でも、「事務官ですから、仕事内容はレセプト(医療費の明細書)など診察データの管理が中心です」と説明を受け、納得したのです。
ところが、勤める前に、いきなり洗礼を受けました。療養所で働きはじめる前日に、敷地内にある寮に入りました。そこに着く直前、道を歩いていると、車の屋根が凹み、そこに人が横たわっていたのです。目の前にある高層マンションから飛び降りた、療養所の患者さんでした。そこでの生活は、そんな衝撃的な経験から始まりました。
その療養所は日本最大級の精神系診療所で、入院患者が1000人以上いて、外来の患者さんは、少ないときで1日300人、多いときで500人くらいいました。いざ赴任してみると、配属されたのは、なんと外来受付だったのです。
――「診察データの管理が中心」という話は、どこにいったのでしょうね。
【萩原】それはもう、普通では経験できないことの連続でした。当直中に外来のアル中患者が出刃包丁を持ってきて、「医者を出せ!」とわめいたこともありました。当直で夜中に見回りをしているときに、首吊り死体を発見したこともあります。また、診療所の隣に高層マンションが立ち並ぶ団地があったのですが、幻覚から、そこから飛び降りる人もいました。そういったことが起こるたびに、死体処理の片付け手伝いに行かされていました。
国立療養所には、2年3ヶ月務めましたが、どれくらい死体を見たか分かりません。
――その後、国立病院の小児科に異動になりましたが、それは希望されたのですか?
【萩原】国立療養所時代の上司が、異動で東京都世田谷区にある国立病院(小児科)に移っていたのです。そこの事務の方が辞めたため、即戦力となる人が欲しいということで、声を掛けられたのです。
国立療養所に勤めていたとき、仕事がものすごく忙しく、その上に大学の勉強もし、科目によっては平日の夜に東京の水道橋までスクーリングに行っていました。そんな無理がたたり、一度身体を壊したのです。それを機に、身内の近くに住んだ方がいいということになり、寮を出て育ての親である東京の叔父叔母のいる目黒に引っ越していました。
そんなこともあり、国立病院だったら通勤にも夜間スクーリングにも便利なので、これはラッキーだと思い、話を受けることにしました。
――国立病院の小児科には、どのような子が訪れるのですか?
【萩原】そこにかかるのは重篤な子が多く、学校が長期休みとなる夏休み、冬休みになると、全国から患者さんが訪れます。そのため、その時期はものすごく忙しいですね。当時、僕は20歳で、子どもたちとよく遊んであげていたのですが、「また明日ね」と言って病室を後にし、翌日また行くと、もういないということがよくありました。「○○ちゃんは?」と聞くと、「天国に言っちゃった」と。そこでは、それが普通の会話なのです。
当直していると、未熟児が運ばれてきてそのまま亡くなり、僕とかわらないくらいの年齢の母親が涙を流しながら手続きをしているのを目にしたこともあります。
国立療養所と国立病院をあわせて5年間、国家公務員として働きましたが、つねに人の生と死が近くにありました。これはこれで、なかなかできる経験ではないので、いい人生経験になったと思っています。
――国家公務員を経て教員に転身しますが、何かきっかけがあったのですか?
【萩原】国立病院の小児科(喘息専門)の医長さんが、たまたま僕が通った茅ヶ崎市の小学校中学校の大先輩で、とてもかわいがってくれていたのです。その先生が、神奈川県のある私立女子中学高校の校医をやっておられ、そこで事務ができる先生を探していると聞き、僕に声を掛けてくれたのです。そのとき、僕はまだ大学は卒業していませんでしたが、教員免許は既に取得していました。そこで、中学高校の恩師への恩返しのつもりもあり、教員をやることにしたのです。
恩師がにらんだ通り、荒れた中学校で生徒の心をつかんだハギー先生。
――教師生活9年間のうち、前半の4年間は私立女子中高ですね。
【萩原】教師として、最初に赴任した学校は、カトリック系の女子中学高校の一貫校でした。そこには4年間勤め、高校で英語を、中学で英語と国語を教えました。教育実習のとき、僕の話しに対する生徒たちの反応がよく、教師の仕事も悪くないなと思っていました。実際にやってみると、生徒たちと良好な人間関係を築くことができ、部活の顧問をやったり、将来のことや、就職、恋愛などの相談にも乗ったりしながら、教師生活を送っていました。
その間、大学も卒業し、そろそろDJの道に進もうかなと、教師を辞めるつもりでいました。そんな矢先に中学の恩師から連絡があり、「いま茅ヶ崎の中学が色々と問題があるから1年間やってくれないか」と頼まれたのです。それで、1年だけならと引き受けることにしたのです。
――1年のつもりが、色々な学校から引っ張りだこになりました。
【萩原】後半の5年間は、神奈川県茅ヶ崎市と藤沢市の公立中学校で、1年ずつ(年度ごと)5校で社会を教えました。最初の中学校では、バレーボールなんて経験ゼロにもかかわらず女子バレーボール部の顧問をやりました。当初、1年間だけのつもりで、この後ラジオDJの道に進む予定でしたが、別の中学校でもう1年間、先生をやって欲しいと頼まれたのです。というのも、僕がいた学校の校長先生と、次に行って欲しいと頼まれた学校の校長先生が義理の兄弟で、2人の間で話が進んでいたのです。それで2校目に赴任し、そこでは初めて「クラス担任(中学校1年生)」になりました。また、剣道なんてやったことなかったのですが、剣道部の顧問もやりました(笑)。
すると今度は、藤沢市教育委員会から電話がかかってきて、「ある中学校が荒れているから、ぜひ萩原先生に来ていただきたい」と頼まれたのです。しかも、「校長先生、教頭先生には、もう許可をいただいていますので」と。正直、「またか」と思いましたが、石の上にも3年というので、あと1年だけやることにしました。3校目では、私立女子中学校高等学校4年間担当していた女子ソフトボール部の顧問をやりました。嬉しかったです。燃えましたね。
本当は、ここで公立中学校の教員とさようならする予定でしたが、今度は、別の中学校で野球部の顧問が10年目で異動になり、全国レベルの野球部の顧問を担当してくれる教師がいないとのこと。そこで、僕が、野球実況できそうだし、ソフトボールと野球が似ているからと、ちょっと強引な理由で、「1年間つなぎで野球部顧問やってくれないか」と話がありました。教頭先生から、「萩原先生は、この学校に残るか、4校目の学校に行くしかない!」と迫られましたが、もうすでに3校目のソフトボール部などのお別れ会は終わっていました。それで、4校目に行き、野球部顧問(監督)になりました。そこの野球部は、本当に強かったです。試合で勝てたのは、監督が良いからではなく、部員(選手)がすごかったからです。
そうして、本当に本当にもうこれで辞めようと思っていたら、教育委員会の方がやって来て、「もう1年だけ」と頼まれたのです。移るたびに、学校の荒れ方がひどくなっていたのですが、最後は県下で最も荒れていると言われている中学校でした(笑)。5校目でも野球部顧問(監督)」をやったのですが、そこの野球部は、市内でもかなり弱いと言われていました。そのため、野球部父母会は、隣のあの強豪野球部の顧問が来ると、ものすごい盛り上がり様で、着任当日に「父母会歓迎会」がありました(笑)。それは大きなプレッシャーでしたが、とにかく賞状は取ろうとがんばりましたね。実践で、他校野球部から学ぶ方法が一番早いと思い、神奈川県内の強豪中学校野球部に毎週のように、練習試合をしに行きましたね。あとは、いつでも部員と一緒にいることが大切だと思っていました。それと、先生と生徒、顧問(監督)と選手のつながり、それと「男同士」のつながりも大切にしました。そうして、最後の大会(市長杯)では、優勝したんです。本当に、良かったです。
どこの学校でも、問題を起こす生徒は多くいましたが、学校にいるときは、だれでも、どの生徒でも、「俺が父親代わり」だと思いながら、付き合っていました。
――恩師の目利きは合っていたということですね。
【萩原】なぜ僕が生徒たちに受け入れられたかというと、子どもたちにとって僕の存在が面白かったのだと思います。たとえば、進路に関して他の先生は、「高校には行かなければ行けない」とか、「もっと勉強しなさい」とか強制するのです。一方、僕は、「高校は義務教育ではないから、行きたくなかったら働いてもいいんだよ」、「就職してから高校に行きたくなったら定時制や通信制の高校に行けばいいんだよ」、「高校行って合わなかったら、中退して自分に合った道に進み、幸せになればいいだよ」、「一生懸命努力して自分に合わなければ、他の道に行けばいい。その経験は必ず役に立つから」など、先生が普通口にしないことを平気で言っていましたね。すると子どもたちは、「そういう生き方もあるんだ」と、心がすごく楽になるのです。
大人たちが勝手にレールを敷いて、無理やりそこに押し込もうとするから、それに馴染まない子どもは反発するのです。ですから、レールという世間の常識や見栄、人との比較から解き放ってあげれば、子どもたちは生き生きとして、それにとらわれない生き方を見つけるのです。
――著書では、教員時代のエピソードが多くありますが、その中でもカップラーメンの話はいい話ですね。
【萩原】普段は、授業をさぼったり、学校の備品を壊したりする子で、手がつけられないところがあったのですが、自分だけ先生からお昼をごちそうになっては悪いと思ったのでしょう。他の子のことまでおもんぱかって、仲間全員分のカップラーメンを買ってきてくれたところに彼の優しさを垣間見たようで、心が温まりました。
多くの人が、人のある一面だけを見て、それがすべてだと判断しがちです。でも、そうではないことを彼から学んだのです。
- No.39 大九明子さん
- No.38 はまのゆかさん
- No.37 樋口弘光さん
- No.35 小松亮太さん
- No.34 おかひできさん
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- No.31 漆紫穂子さん
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- No.24 中田久美さん
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