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著名人インタビュー この人に聞きたい!
冨田勲氏さん[音楽家]



第2章 シンセサイザーとの出会い ~仕事を断り続けた1年4ヶ月の賭け~

役に立たなきゃ1000万円の鉄くず。とにかく時間もなく、先も見えなかった。

【冨田】ある日、輸入レコード店で「スイッチト・オン・バッハ」というレコードを見つけました。シンセサイザーだけで演奏をした世界初のアルバムです。それを聴いて、これなら好みの音色を自在に出せるのではないかと考えたんです。でも、そのアルバムには「モーグシンセサイザー」の一言しかなく、制作者がモーグ博士ということしか分からない。それを頼りにさまざまな手を尽くし、しまいにはモーグ博士本人とも手紙でやりとりをしました。そして、ようやく1台輸入することができましたが、当時の金額で1000万円もしたんですよ。最初から計算があって買い込んだわけじゃないですから、今思うと冒険でした。

ところが、買ったのはいいんですが、届いてみたら、これが単なる「音出し機」。楽器以前の状態だったわけ。ボリュームや音階の調整も全部手動なので「だいたいこのへんだな」と矢印でメモをして音を作っていくしかない。結局、勘に頼りながら、感覚を研ぎ澄ませて調整していくわけですよ。役に立たなきゃ1000万円の鉄くずになっちゃうから「これは何とかしなくちゃいかん」と思って、むちゃくちゃになるよね。収入を得るために作曲もしないといけないけど、まとまった仕事は断らざるを得ない。同じ人からの仕事を2回断れば3回目はまず来ないですね。とにかく時間がなかったし、先も見えなかった。

「徹夜マージャンで倒れた」なんて聞かないでしょう。いやいやながら徹夜するから身体を壊すんだと思うね。

【冨田】ガラクタ部屋の中で、プールサイドに置くような折り畳みの椅子で仮眠をとる。起きてはまた作業をする。その繰り返しです。最初のデモテープができるまで、そんな1年4カ月を過ごしました。

当時、見た夢があるんです。真っ暗な岩場のある海を、一人で船を漕ぎ出していく。海の向こうは何も見えない。振り向くと知り合いの顔が見えるんです。手を振っているようだけれども、暗闇の中で人がだんだん減っていく。これから自分の行く先はどこなんだろう……。そういう夢を二、三度見ました。やっぱり半分自信がなかったんですよ。でも、目を覚ますと、そんなことを言っていられないから、また音の調整に取り組む。そのうちに、一つ何か気に入った音が出ると、関連の音が出てくるようになったんです。そこへ行くまでが大変だった。あれは40歳になる頃ですが、よく体を壊さなかったと思います。ああして緊張しているときは風邪を引かないんですね。

公務員や銀行員が残業続きでグロッキーになって「あいつ、倒れちゃったよ」とよく聞くわけですよ。残業で徹夜したって、たかがしれているでしょう。「何を言うとんのか」と。いやいやながら徹夜をしているから体を壊すんだと思うね。「徹夜マージャンを2日続けたから、あいつ、とうとう倒れて入院しちゃったよ」という話は聞かないもんね。

レコード会社に「売れるかどうか分からない」と言われ、迷わずアメリカに渡った。

【冨田】1年4ヶ月かけて完成させたアルバムだったんですが、一番ショックだったのは、アプローチをかけたレコード会社が反応してくれないことでした。若いディレクターは「面白いから、ぜひ自分のところで出したい」と言ってくれたので、出来上がったらさぞかし引く手あまたになると考えていたんです。ところが、営業サイドには全く受け入れられない。どのジャンルかわからないし売れるかどうかわからないと言われたのです。事実「スイッチト・オン・バッハ」は効果音の棚に並べられていました。このままではアルバムが出ても「懐かしのSL」の横なんかに置かれてしまう。それは1年4カ月と1000万円をかけてつくった作品にふさわしい場所じゃない。あきらめるわけにもいかないから、必死になって考えました。

ビルボード誌

出た答えは、「スイッチト・オン・バッハ」を出したレコード会社の担当者に直接聴いてもらうこと。つまりアメリカに行くことでした。偶然が重なって、それが良い形で実現したんです。デモテープを聴いてもらった後、不安げに待っていたら、RCAレコードの担当者ピーター・マンヴェスが出てきて「おい、ビール飲みに行こう」って言ってくれた。「これはいい話になるな」と判りましたよ。

そのいきさつは、私が書いた本(『音の雲』NHK出版)に詳しく書きましたが、発売されたアルバム(「Snowflakes are Dancing」・日本名「月の光」)は、ビルボード誌のクラシックチャートの1位となり、1974年のグラミー賞でも4部門でノミネートされました。

今思うと、1970年ごろの日本はお役所的で保守的なところがあって、新しいものがなかなか出てこない時代でしたね。だから、「アメリカに行ったほうがいいんじゃないかな」という直感を信じて迷わず行動したことが、案外よい結果になったのかもしれません。