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著名人インタビュー この人に聞きたい!
冨田勲氏さん[音楽家]



第4章 追求心の源にあるもの ~さらなる音の拡がりを求めて~

タンチョウヅルが春を待たずにシベリアに向かう。それと何か似ているのかなと思うね。

【冨田】僕がオーケストラの生演奏では満足できずに、それ以上の音を求めていったその追求心の源があるとしたら、「表現したい」ということでしょうね。要するに画家の使うパレットのように、音を使いこなして表現をしたかったということだと思います。シンセサイザーを見て、「どんな音が出るんですか」「何種類ぐらい音が出ますか」と言う人がよくいるんだけれども、それは画家のパレットを見て「このパレットは何色の色が出るんですか」と質問するのと同じだと思うんですね。

それは、チャレンジとかね、人と比較して「あいつがここまで行ったから、おれはどうだ」とかいうことじゃないんですよ。自分はやりたいからやっている。ただそれだけだな。登山家のマロリーが言ったように「そこに山があるから登るんだ」。そういう言い方をするよりしようがない。あるいは、北海道にいるタンチョウヅルが、春を待たずにシベリアに飛んでいっちゃうでしょう。途中の日本海に落ちたら魚の餌になるしかないけれども、それでも海を渡ろうとする。遺伝子のなせるわざなのかな。似ているのかなと思うね。

だから、僕は、どうしてもそのまったく反対にいるニートの話なんかが理解できないんだよ。だって、時間がいたずらに過ぎていくわけでしょう。そうすると、若いうちはいいかもしれないけれども、40、50歳になって誰が助けるのかな。親がいれば、しようがないなと思いながら面倒を見てくれるけれども、親がいつまでたっても生きているものじゃない。これは日本全体にしても、ちょっと大きな問題だよね。

最近、シンセサイザーも安くなって、10万円以下でも相当な機能がついているし、サラウンドのミキシングがノートパソコンを使ってできるでしょう。どこかの温泉にノートパソコンを持っていって、そこでヘッドホンで聴きながら仕事ができちゃう。画家が絵の道具を持って旅行するのと同じように音楽が持ち運びできるんですよね。だから、一方的に音楽を聴くだけじゃなくて、そういう手軽さを積極的に利用する。そして、よし、おれもやってやろうと本気になって取り組む、そういう若い人たちがこれから出てくるといいんじゃないでしょうかね。

電気を使うシンセサイザーは、古典的な自然の音だと思うんですよ。

【冨田】最近、僕には楽器とシンセサイザーとの区別がなくなってきたんです。これは電子音楽です、これは楽器です、これは千年も昔の琵琶ですという区別はないんです。だから「源氏物語幻想交響絵巻」のときも区別なく使いました。シンセサイザーの音が入ったときも、みんな気がつかなかったんじゃないかな。

シンセサイザーが扱う電気そのものは、実は自然のエネルギーなんですよ。僕らの生命をつかさどっているのも電気ですよね。心臓が動くのも、洞房結節という発電機から筋肉を動かす電気が出ているからでしょう。

シンセサイザーは、たくさんの装置をつないで電気の波を変えて、それを聞きながらイメージどおりの音をつくっていくものです。もともと自然に存在する電気の習性をうまく利用しているわけで、昔は水車で動かしたと言われるパイプオルガンと比較したら、電気を使うシンセサイザーの音だって自然の音だと思うんですよ。

だって、雷は純粋な電気の音ですからね。その存在は火山活動より早かったんじゃないですか。楽器というのは吹く、こする、たたく、そのどれかで出来ていて、火山活動の音は、まさにそれです。太古の昔、雷が生まれた後で火山活動が始まったわけで、こじつけみたいに思うかもしれないけれども、電気による音楽は最も古典的だということになる。だから、僕は、人工的な楽器だと言えないものはないと思うね。パイプオルガンにしたって、バイオリンにしたって、フルートにしたって、要するに加工していますよね。だから、それぞれを生かせる分野で、楽器なりシンセサイザーなりを使いこなすことで表現範囲が広がると、聴く人も楽しめることになるんじゃないでしょうか。

結局、僕は音について、遺伝子や宇宙と同じように人智を超えたものだから興味を持ったのかもしれませんね。そういう神秘や不思議というのはすばらしい。解明されちゃったら、世の中、面白くなくなっちゃうでしょう。謎のままでもいいんですよね。

そして、誰の心の中にも宇宙は、あるんですよ。