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日本の伝統工芸(続き)

日本の伝統工芸(続き)

伝統工芸とハイテク
携帯電話用のリチウム電池には、過剰電流が流れたときにイオンの通過をふせぐ耐アルカリ性繊維を利用した紙が使われている。また自動車のブレーキの摩擦材には、合成繊維や無機繊維を混抄(紙をすくうときに複数の素材を混合させる)した紙が用いられている。あるいは、紙の表と裏の組成を連続的に変化させた特殊な紙が、スペースシャトルの外壁の断熱材として考えられている。それらの紙は機能紙と呼ばれていて、純粋な和紙ではないが、和紙の技法を使って作られている。中国から伝わった抄紙(植物繊維から紙を作る)技術は、日本において高度に改良された。大陸の技術は細かくほぐした繊維を網の上にい付着させるというものだったが、100年後の日本において、水を使って長い繊維だけを薄く漉くことに成功したのだ。この和紙の抄紙技術が、合成繊維やセラミック繊維による高品質の機能紙の原点になっている。つまり、伝統工芸の技術が新素材としてハイテクに応用されているということになる。

日本の伝統工芸の歴史
日本の伝統工業の基礎となる技術は、ほとんどが中国や朝鮮など大陸からもたらされたものだ。しかし前述の和紙の例に見られるように、それらは高度に改良され、洗練されて、日本文化を支え、人々の仕事や暮らしを豊かなものにしたり、華やかな彩りを添えるものとして発展した。有田や伊万里の陶磁器はヨーロッパの陶芸家・陶芸メーカーに決定的な影響を与え、江戸時代の浮世絵と木版技術はゴッホやゴーギャンなど印象派の巨匠たちを魅了してやまなかった。現在でも、例えば漆器は、フランスのヌーベル・キュイジーヌ(新フランス料理)の有名シェフたちがあこがれの的だ。

明治になって、日本は産業の近代化。重工業化を進めたが、製糸、織物、陶磁器などは主要な輸出産業であり続けた。近代化の時代でも、伝統工芸は日本の重要な資源だった。政府や地方庁は織物や染色などの工芸技術を伝え教える教育機関を創設した。だが。紡績、造船、機械工業など近代工業が発展し、日本人の生活様式がしだいに西洋化するにつれて、伝統工業に少しずつ変化が訪れるようになる。たとえば染料である藍の生産は安く輸入される化学製品の影響で減少した。昭和初期には、産業の大規模化、機械化に危機感を持った人びとによって、手工業技術・伝統工芸を守る国民運動が起こったが、グローバルな近代化路競争の中で、日本の伝統工業はしだいに衰退へと傾いていき、戦後の高度経済成長期に決定的な危機を迎えることになる。

危機を迎えた伝統工芸
1年間の経済成長率が10%を超えて、しかもそれが20年あまり続いた高度経済成長は、日本人の所得水準と生活レベルを大きく向上させるとともに、いくつかの犠牲を生むことになった。最大の犠牲は環境の汚染と破壊だが、同時に伝統工芸品も、近代工業製品との競争に敗れ、シェアを失っていった。また高度成長期には、地方から都市部への労働力の大移動が起こり、その結果、農村は衰退し、原材料を農林業に頼っていた伝統工芸の基盤がおびやかされることににあった。さらに高度成長期には、鉄道、道路、橋、トンネル、ダム、空港などの社会的インフラの整備が進み、また大規模な宅地造成事業が進められて、日本固有の木材や石材、陶土などの採取がむずかしくなっていった。

しかし、伝統工芸にもっとも大きな打撃を与えたのは高度成長期に起こった雇用状況の変化である。昔から伝統工芸は、農村の安い労働力と、徒弟制度という就業システムに支えられていた。だが高度成長によって国民の所得水準が飛躍的に増え、同時に教育への関心が増して、ほとんどの子どもが高校に進むようになった。戦前までは小学校を出るとすぐ伝統工芸に弟子入りするという子どもがいたが、そんな子どもがどこにもいなくなってしまった。伝統工芸で一人前になるためには少なくとも10年は修行が必要だといわれる。だが旧来の徒弟制度では、弟子に満足な給与は支払われない。工業化を果たした日本にはもっとてっとり早く一人前になって、見習いのころから給与がもらえる職業がたくさん誕生し、伝統工芸を目指す若者がほとんど姿を消してしまった。

日本人の生活様式の変化
高度成長期にはほぼ完成された工業化と西洋化によって、伝統的な生活様式や習慣が失われ、素材の主流はプラスチックや合板や合成繊維となって、食器や容器や家具や衣服や装飾品などの「使い捨て」が当たり前のことになった。ファッションや生活用品にはつねに流行があり、親の代の着物や帯を大事に取っておくとか、タンスや机などの家具を子どもに残すとか、そういったこともなくなった。都市化と核家族化が進んだことで、伝統的な行事、祝い事、祭り、子どもの遊びなどもしだいに姿を消していった。さらにテレビに代表されるマスメディアは、結果的に日本の各地方や地域の独自性を失わせ、都会から農村のすみずみにいたるまで、プラスチックの容器や食器、大量生産された合成繊維の衣服、化粧合板やスチール製の家具、家電製品、自動車、建て売り住宅など、どれも同じ様な製品が氾らんすることになった

伝統の再発見
しかし、70年代に高度成長が終わり、90年代にバブル経済がはじけたこともあって、日本人の意識は微妙な変化を見せ始めた。環境に配慮した企業や製品が支持を集めるようになったのと時を同じくして、スローフード、つまり伝統的な食品や食材の価値が新しく見直されるようになった。大勢の若者が京都や奈良を訪れるようになり、和紙の脂取り紙がブームになった。熊野筆という伝統的な筆は世界のファッション、メイク界で注目を集めている。女性誌が、海外のブランド製品とともに、たとえば江戸の指物(さしもの)や小物、文様紙などが取り上げることは珍しいことではなくなった。古い農家を改造し、木の香りを楽しみ、伝統的な家具に囲まれて暮らす人も増えている。宮大工や宮板金へ弟子入りする人が急増し、伝統的な織物を使うファッションデザイナーも増えつつある。
そういった現象は単なる「伝統回帰」ではないと思う。わたしたちは豊かになって、また海外を知って、自分たちの伝統が持つ価値に気づき始めたのだ。海外を旅行したり、海外に出張したり、海外で働いたり、海外の学校に言っていた人は、日本の伝統工芸品が海外の有名工芸品と比較しても決してひけをとらないことに気づく。それは海外の工芸品と比べて日本のものが勝っていることではない。それぞれのよさがあるが、やはり日本人なので日本の伝統工芸品になじみがあり、待ったり、使ったりするときに心が安まるということだ。伝統工芸の価値の見直しには、長く続く経済の停滞も影響している。この本でもくり返し指摘しているように、大きな工場や会社に就職することが単純に有利とはいえなくなった。例えば宮大工への弟子入りが急増しているのは、確かな技術というものの価値がこれまでに無く高まっていることを示しているのだ。

資源としての伝統工芸
経済の停滞が長く続き、産業の構造や雇用の形が変化しつつある時代に、資源押しての伝統工芸の価値を見直すのは合理的なことだと思う。フランス料理の修業にはまずフランス語を学ぶ必要があるだろうし、ベネチアグラスの技法やスイスの時計技術を学ぶときも、語学や、その国・地域の文化や伝統を身につけなければならない。明治の開国以来、わたしたちは欧米を目指し、欧米のまねをして、欧米に追いつくことを目標にしてきた。産業革命からIT革命まで、つねに欧米から学ばなければならなかった。しかし、日本の伝統工芸は、わたしたち日本人のもので、わたしたちの社会はすでにそれを持っている。日本の多様な伝統工芸の中から、前述した機能紙や熊野筆のように、世界市場に出て行く商品が新しく生まれる可能性もある。だが、単に趣味的に伝統工芸品に回帰しても、日本の伝統工芸を再生するのはむずかしい。その価値を理解し、新しい可能性を探る現代的なアイデアや営業力が求められる。また、どこにも就職できないからと、安易に伝統工芸の世界に入っても、厳しい修行に耐えられるわけがない。

しかしそれでも伝統工芸は資源としてよみがえるべきだと思う。すばらしい伝統工芸品の価値を積極的に見出して、その再生を促す社会的なコンセンサス(共通認識)と仕組みを作っていくこと、わたしたちに求められているのは、そういうことだ。そういった姿勢こそが、本当の意味の「愛国心」を生む。愛国心というのは、伝統的な何かに盲目的に従うことでもないし、政府や権力に対し無批判になることでもなく、まして外国に対して根拠のない優越感を持つことでもない。自分たちの伝統に価値を見いだし、その価値をわかりやすく子どもたちや外国に伝えて、そのことに静かな誇りを持つ、そういうことではないかと思う。伝統工芸の再生は、環境の再生に似ている。それはある意味で地域の再生であり、また失われた価値を取りもどす試みでもあるからだ。こつこつと美しいものを作っていくのが好きな人にとって、伝統工芸品の世界は大いなる充実感を与えてくれるだろう。

(書籍「13歳のハローワーク」より)


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