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もっと教えて!フォーラム
回答・コメントする(No.2458)
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いつも、子どもたちの疑問にお答えいただき誠にありがとうございます。
13hw編集部より、ご回答くださる際のポリシーに関するお願いです。
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回答は、基本的には、その職業の方(または経験者、相応の知識を有する方など)にお願いしております。
しかしながら、なかなか回答のつかない質問もあります。
投稿されてから2週間経っても回答がつかない質問に関しましては、職業などに関係なく、ご回答のご協力をお願いしたいと考えております。 -
白書の皆様におかれましては、貴重な時間を割き、子どもたちの質問に丁寧にお答えくださったり、叱咤激励してくださって誠に感謝しております。
このようなお願いをするのは大変恐縮なのですが、勇気を出してこのサイトに質問を投稿してくれた子ども達に、よりよい情報を提供したいと考える当サイトの運営ポリシーをご理解・ご了承いただけますと幸いです。
脱「ゆとり教育」で授業増。あなたのご意見は?
[Q] 小中学校で、国語や算数・数学など基礎教科の授業時間数が1割ほど増えることになりました。
約40年ぶりという大きな方向転換です。
授業増は、基礎学力の立て直しを図るための処方箋となるのでしょうか?
今回の授業増について、あなたのご意見をお聞かせ下さい。
小中学校の基礎教科の授業増に賛成です。
やっぱり学力低下してきている現在の僕たちです。
やっぱり学力低下してきているのでやっぱり授業増に賛成だと思います。
現在の学力と昔の学力の差が激しいので、くい止めて元に戻して行きたいと僕はすっごく思っています。
私は「どちらでもない」に入れました。
“ゆとり教育”や“脱ゆとり教育”と大人が騒いでいますが、こどもには何のことかわかりません。なぜなら今目の前にある環境が真実だと信じているからです。
今の大人は、「昔はもっと理科の実験をやったなあ」とか「今の子供たちはホントに勉強しないなぁ」など、あたかも昔は今より断然すばらしかった、かのような発言をしています。 こどもからしてみれば、昔の教育など知ったこっちゃないことです。
今の教育、勉強法、家庭学習、塾、このようなシステムをつくって子供に与えているのも大人です。
今の大人は“今のこどもたちにゆとり教育から抜け出してもらう事を望む”前に、
この環境を作り出した責任を持ってほしいとおもいます。
こどもは大人の“おもちゃ”でも“実験台”でもありません。後の未来を担う大切な人材であり希望です。その希望を、大人がよいと思って行った政策で振り回したあげく、失敗だったなとつぶやくのはあまりに無責任です。
一番の被害者はこどもであり、後の被害者は今の大人になるのです。
今の大人は最近のこどもはダメだと思うなら、少しでも昔のような素晴らしい大人にしてほしいと思います。それが償いというものではないでしょうか。
生意気でした。そして長文失礼しました。
私は反対です。
私自身が中学生でめんどくさいという気持ちもあるかもしれませんが、オトナは少し無責任だと思います。
(大人全員にあてはまると言うわけではないので、カタカナでオトナと致しました)
子供に「ゆとり教育」または「脱ゆとり教育」を決める権限は無く、あるのはオトナです。
最初、この方が良いだろうと自分達オトナが決めた「ゆとり教育」。
それが失敗したからって「今の子供達は・・・」と言い出し、今度は「脱ゆとり教育」だなんて・・・。
子供はそれに振り回されるしかありません。なにしろ「国」が決めた事ですから。
自分達オトナが決めた事なのだから、子供の学力が低下した理由を子供に求めず、なによりも「責任」という物を感じて欲しいです。
勉強も大切ですが、それよりももっともっと大切なものを教えてもらった方が、よっぽど為になります。
乱文、それに生意気な意見、失礼致しました。
私は「どちらでもない」に入れました
なぜかというと・・・
お母さん、お父さんがやった内容をやらない。というのは
私はいやだから
!!!!!!!!!!賛成!!!!!!!!!!
という意見と
勉強よりも、一人、一人がもっと、しっかりして
思いやりのある人になる方が優先かな?という
!!!!!!!!!!反対!!!!!!!!!!
の意見があるからです。
*****終わり*****
「ゆとり教育」というネーミングが悪かったのかなあ。「ゆとり教育」の背景は、自ら考え、行動できる能力の育成にあったはず。授業時間数増のことと同じレベルで考えてはいけないことだと思います。「ゆとり教育」の意味が本当に理解されたいないことは日本の将来にとって痛い。 知識の量がいくら増えたって、もう立ち行かない時代だってことは、誰もが分かっているはずです。
私は反対です。
時間が増えたから頭が良くなる訳でもないし、
むしろ先生の質を良くした方が良いと思います。
(私が言える立場ではないですが。。)
先生がしっかりしてるクラスは点数良く、真面目な子が多いです。
雰囲気が違うと皆変わってきますし。
サボりたいーーと言ってる子でも、先生が怖いと言って真面目になる人が多いと思います。
ほったらかしのクラスは、休み時間にゲーム(PSPやDS)しています。
それだけでも変わってくると思います。
ぶっちゃけますと、家庭科等の副教科があった年代(?)の方が、
真面目な子も多かったり、切り替えが出来る子が多かったと聞きます。
うちの学校の先輩であり、先生が言っていました。
長文失礼しました。(__)
大賛成です。
声優志望者に接していて感じることは、
基礎学力が低すぎて指導が難しくなってきています。
特に国語力の低下が著しく、
同じ日本人と思えないこともしばしば…
英語についてなのですが、
授業時間を増減するよりも、
教える範囲を狭くしてはどうでしょうか。
日本の大学受験英語は、アメリカの高校生でも解くのは難しいのですから、
現在の中学3年ぐらいまでの英語を
高校3年までかけて繰り返し反復して教えてはどうでしょうか。
数学については、使う職業と使わない職業の差が大きく、
使わない職業の方が圧倒的に多いのが問題です。
「論理的思考を身につける」と言いますが、
国語の中に哲学基礎を取り入れることにより解決できます。
数学は現在の中学2年ぐらいまでの内容で十分なのでは。
反対です。
学校の授業を増やしても、あまり効果がないように思います。ただでさえ、ゆとり教育で教科書の内容を削減されたりして、混乱したりしているのに、いきなり「これから授業時間を増やします。」と言われても、私達生徒や児童は納得できないです。
学力を向上させたいと思うのだったら、もっとほかの方法があると思います。
たとえば、ひとつひとつの教科が大人になったらどんなことに役立つか教えてほしいです。それがわかれば、勉強をするのが楽しくなってくると思います。ただ単に、授業時間を増やすことだけを考えないで、どうすれば学習意欲が高まるのかを考えてほしいです。
どちらともいえません。
まずは教師の質を上げて欲しいです。
人間的にも能力的にも。
教師までもが生徒をイジめるこの時代じゃゆとりもなにもないと思います。
かえって人間関係の意味でゆとりがなくなったんではないですかね。
まずは教師・・・いや大人の問題じゃないでしょうか。
良い先生に当たるかどうかでその人の人生が左右される
特に私の世代になってからは良い先生と悪い先生の差がはっきり出て
さらに悪い先生ばかりが増えたように思います。
教師もいろいろ生徒が悪いだとか言ってますが
だったら教師なんかやるなと思います
他人のせいにするのは簡単。
だけどそれを自分よりも年下の人間のせいにするなんて
どれだけ幼稚なんだよ、と。
とにかく、生徒側を改善するのは後でいいから
教師の試験に適性検査か何か入れて改善して欲しいです。
大人の勝手な意図で犠牲になる子供がいるんです。
賛成だと思います
私が小学校に入学したときから土曜日の授業が完全になくなって、ゆとり教育が本格化?したらしいです。そして私の義務教育が終わるころに、ゆとり教育の見直しが完全に終わるそうです。
私たちの世代はゆとり教育の犠牲だったのかとか思わずにいられません。
文部科学省とか日本教員組合とかの人たちは何がしたいんでしょう?
国際のテストの点を気にするより、子供にとって学校が楽しければいい気もします
こんにちは!ナナオネです。
今回で2回目となりました。さて、本題に入っていきたいと思います。そうですね・・・。たしかに、ゆとり教育で日本の学力が下がってきているのには、問題だと思います。やはり、日本はゆとり教育を、めるべきじゃないでしょうか?
たしかに、実は私、中学1年ですが私が受験生の時に、ゆとり教育ではなくなっていて、試験の問題も難しくなっていたらかなりの不安はありますが、その代わりに沢山の知識を学ぶ事になり、将来にも役立つと思います。それに、私たちのお母さん達は、ゆとり教育じゃなかったので、当然今より、難しい知識を得ていたのに違いはありません。だったら、今の世代の私達も、難問などをこなしていかなければいけないのではありませんか?と私は思います。
私は反対です。
学力が低下したからといって、勉強の時間を増やすというのはちょっと考え方が、
幼稚な気がします。
「今ある時間でどのくらい、いい授業にするか」が重要だと思います。
要は「量より質」ですね。
しかも最近は家庭科や技術など技能教科の授業が減ってきた、と思います。
私、思うのですが将来、「役に立つ」というものは技能教科ではないのでしょうか?
学力が低いといって国語や数学などばっかり、増やすのは、息も詰まるし・・
正直あきます。
授業時間が増えることに賛成です。 今の日本の学力は、世界の国々と比べると年々ランクが下がってきています。 これの原因は、ゆとり教育によるものと考えています。 このままでは、日本は今までの大人が作り上げてきた日本の技術が徐々に失われていくかもしれません。そのためにも一刻も早く今の教育現場を変えていくべきです。 今僕たち中学生がいろいろな常識や知識を知らないでいたら、もう後世の子供たちにはそれを伝えることができません。日本の未来は非常識な人が増えていくことになるとおもいます。
時間増、賛成です。
ただ、時間を増やして内容を増やすのではなく、考える時間を与えてほしいと思います。
問題の解き方ではなく、「これが解けると何ができるのか?」を教える先生が増えてほしいと思います。
私は授業時間を増加することに反対です。
教育実習生に毎年聞いていることなのですが、
「先生たちが一番嫌いな教科はなんですか」というと、
文系の先生は「数学・理科」理系の先生は「英語と公民」と答える方が多いと感じます。
ところが、嫌いなわけを聞くとどちらの先生も「難しいから」と答えます。
私はそのことに学力の低下を覚えるのです。
理由は、安易に「難しい」から「嫌い」と認識してしまう事からです。
学力は「学ぶ力だ」と一般に言われています。
ですが、学ぶとは考えることで身につくと習ってきているはずなのに実践に移せない。
「勉強」と「学習」を混同して考えている人たちが多いからではないでしょうか。
私はそのような人たちから学力の低下を唱えられたくありません。
考えることを意識した授業が日本で定着しないのは、教えている側が考えることを意識して授業に臨んでいないからではないかと思います。
こんにちは。派遣です!!
僕は、ゆとり教育には反対です。
理由授業を増加すると教科書が厚くなる為その分、お金もかかってしまうからです。
また小中学校の教科書は税金で買っているため、現在小中学校の生徒は払わなくてよいけれど、厚さも変わってしまったらそのぶん、ばくだいな金額になるため税金の金額が高くなったり国の借金がもっと増えてしまうため、その金額を少しでも減らすために僕は、反対です。
私は今の世の中の状態なら賛成です。
今から言っても遅いことですが、ゆとり教育など元々やらなければよかったのにと思います。
「ゆとり教育」と言っていますが、全然「ゆとり」じゃないじゃないですか。授業数が増えてしまえばそれだけ私たち学生への負担は多くなるだけです。
いまは授業が追いつかない。それだから授業数が増えても仕方ない。そう思いますが、もっと違うやり方があるかも知れません。
昔みたいに土曜日を復活せせればいいのでは?と思います。
学力低下はわたしたち学生の問題だけではないと思います。教える側にも責任があると思います。この問題についてはみんなで立ち向かっていかないと解決出来ないと思います。
そうですね・・。とても根っこの深い問題。人が国家の礎ですから教育問題は大げさでなく我々人類が生き残るための鍵の一つですね。
元々これは「詰め込み教育」により「頭でっかちの人」が育てられてしまった(と考えられている)という反省からいわゆる逆方向へ軌道修正するために考えられた政策です。
私もかねてから「高校以上での勉強は学者のする物である」と考えていました。したい人や本当に向いている人も常に確かな人数存在するしそういった人々もまた人類の発展に重要。しかしやりたい人に道の一つとして用意して、制度として、選択肢として平等に各職業へ直接結びつく技術、知識を国が・・。多様な教育と実践力こそ最重要。高等教育で最低限の学力、児童教育には「常識力」「生存力」を・・そう考えていました。
なので概ねではゆとり教育には賛成でしたが、いかんせん中身が無さ過ぎる改革でした。「授業時間を減らせば=で思考力や常識が身につく」・・・これはありえません。
当然の理屈です。
結果、ご存知のとおり学力(これが何なのかは知らないが)はさらに低下し、成果は全く現れず、見当ハズレに終わりました。これも当然の理屈です。
そもそも短絡的。税の無駄遣いを是正し無駄な公共事業を控え、学校数や教員を増やし指導要領やセンター試験などから抜本的に見直せばよかったのです。
「あの」行政はそこまではできなかったでしょうけど・・。今もあの時もこれからも。
教員の免許更新制度や評価制度で「教員の、教育の質が上がる」成果主義、競争主義を取り入れ「学校の質を上げる」という一連の考え方でも分かりますが要は無為無策で
「私たちは仕事してますよ」とアピールするための下らない政策です。
今となっては茶番、八百長だったとまで思えます・・。「ほら!学力下がったでしょ」とね。反動を利用して逆方向に持っていく・・昔よりも。
このように現実、子供たちを取り巻く環境はなんら改善されず、授業増により現場の教職員も子供たちもゆとり以前を上回るパニックと負担を強いられているので
私はどちらかというとこの動きには反対です。
これではわが国の教育は近いうちに破綻します。教育の破綻はモラルと次代の活力の破綻。人が流れなくなり河は淀み国の滅亡です。
基本的には反対です。
私はゆとり教育にしたから日本の学力が低下したとは思いません。要は教師の実力だと思います。実力さえあればほんのちょっと時間を削られたぐらいではこんなにも落ちないはずです。教師自体の能力の低下、まずこれがあげられます。
次にもし授業増、時間増するのであれば、何に時間を費やすか。これはかなり重要だと思われます。ちなみに私は数学の授業を増やすのは反対しませんが、国語の授業増はどうかなと思います。
何故か。それはみなさんが小中学校の授業を受けていたのでおわかりとは思いますが、あの教師が教科書を読んで、ここはどうとかっていう解説・・・あまり良いとは思いません。国語の授業の本質的改革を私は望みます。
俺は17歳のゆとりだ、だか寧ろ必要なのは人間性や個性の上昇だと思うね。
授業を増やす増やさないやら…そんな事をしても、授業が楽か苦かの違いで量の違い。…本当に学びたい奴は何をしてでも学ぶ筈だろう?
俺はゆとりで同時に中卒だけど…ゆとり教育のせいで高校に上がれなかったとは思わない。
何故ならゆとりだとしても…本気で勉強をしていれば高校に上がれるだろうし、そこから突き進めば大学に行ける。
俺はやる気が無いからと同時に人が怖いから中卒になった、今は後悔しているね…大学まで頑張って精神や風習の分野の学者になれば良かった。
…もっとも、親がそれに行かせられるほどの金を持っていたとは思えないけどね(生活保護だし)。
作文を書くにしろ手紙を書くにしろ、本人の表現次第であり…言葉遣い次第だと思う。俺は言葉を書くのがとても下手だ。
結局ゆとりの方が学校側から勉強をさせる事が少ないだけであり…自分で式を作って遊んでみたり色々な事を考えれる時間が増えると言う 個性を高める教育だったのでは?とも思う。
知識が遅れようと遅れなかろうと、人には生き方がある…確かに専門分野は大学や専門や学校に行かねばならないけどね…。
高位の学校はそれ相応の努力をした人間で…それ相応の資金を持っている人間が行けるのだと思う。
常識知らずと俺はよく言われるが、そう言う人間の中にも常識を知らない人間はいて…全の内の一部が不快と感じる行為をしている人間もいる。
世間知らずと言う言葉もあるが、あれは中々に冷たいものだなと思う。
ストレスが溜まる事により、悪い事をする子も居るとは思うな。
俺はされていたし、奪われもした。そして今は俺は悪い人間だ。
基礎的な学習を増やすのは良いとは思えない。
…やらん奴は今は正直やらんだろうしね。
結局長引いてその人独自の芸術と独特の芸術性が出来る事を阻害してしまう気がする。
同時に学校の時間を増やすならば…
まず子供への精神的な苦痛があるかどうか?
家に帰宅した時の疲労感はどれ程のものなのか?
後に行う家事の手伝い等で消費する体力はどれ程か?
家庭での精神的苦痛はどれ程のものか? と言う事を調べるのが必要なきが
…宿題とかの時間もねー
増えても良いと思う。
でも、平日でそれはちょっと・・・。
昔は土日も授業があったからゆとりがあったけど、平日でつめるのは
よくない。
子どもたちの好きな教科が減っていくって言うのはチョット悲しい。
土日も作るって言うのは?
問題は、時間をどう掛けるかではなく中身なんでしょうね。学校も親も。
もともと「ゆとり教育」はなぜ導入しようと思ったのでしょう…。
学校や部活、塾など時間に追われる毎日、自分自身の時間や家族との時間をとるため?
逆にそこで何を学ぶか?その時間と内容、実態はどうだったのか?
立てた仮説に対し検証もせず、学力が低下したから「ゆとり教育」をやめる?
問題の本質が捉えられていないような気がしてなりません。
24時間はどんな人にも平等にあります。
その24時間をどう使うかはその人間であり、そこに使い方の価値が生まれます。この使い方をまず、教えること、ヒントを出すこと、一緒に考える事だと思います。そして1日の時間配分をお互いに確認する。人として目標を持って。
義務教育など学校で拘束される時間。これは行政がプログラムし現場と情報の共有をして時間と中身(質)を捉え、テストでの点数だけではなく人間的質や子が自分を管理できる能力をモニタリングできる様にして検証材料とする。
学校以外の時間。これは学校での勉学や学校社会、集団生活のルール以外の常識的な情報の共有が必要です。確かに学校だけの授業だけでは能力的な差や目標に対し不足分を補うための勉学が必要かもしれません。ただ、親が子に対し勉学にだけ時間を費やしてさえいれば良いと考える親がいる限り個性豊かな自分自身をコントロールできる人間にはならないでしょう。
親が子に伝えるメッセージ、親と子が情報を共有しなければいけない話題、時代とともに大切なものは必ずあります。
その時間をかけられるかどうかが一番の問題だと思います。
あとは自分の時間と睡眠。これは人間として尊重していれば当たり前に親が管理できる時間です。
行政も教育者も親も、子供としてではなく一人の人間として尊重し一緒に考えていく、お互いに問題の核心を捉え情報の共有ができる「心のゆとり」を作る事が大切なような気がします。
かなり根っこの深い問題ですね。
一つ考えてみましょう。出入口という言葉があります。皆さん誰でも使っているし、知っている言葉でしょう。でも、なぜ「出」「入」の、順番なんでしょうか?出入口は、主に特定の空間、電車・エレベーター・劇場などへ出入りする口のことですよね。「出」が先に立つのは優先されるべきが「出」であるからです。
電車やエレベーターへ乗り降りするとき、出入口を開けるようにと言われますよね。出なきゃ入りたい人が入れなくなるしぶつかるし、出る人の流れが落ち着いてから入る訳です。
常識問題ですね。
では、この常識の問題・言葉の定義を誰から教わりましたか?それとも教わってませんか?学校の先生でしょうか。家庭の両親など家族や周りの人々でしょうか。
昔はお父さんも比較的就業時間が短く、またお母さんもお家にいてそうしたことを教えてくれたり、または九九を覚えるのを手伝ってくれたりする余裕もありました。でも今は共働きしていたり、帰ってくるのが遅かったりと子供にこうした部分の教育を施しにくい家庭が増えているのではないでしょうか。また、その欠落した部分を学校の教師に求めたりされていないでしょうか。もっとエスカレートした要求を学校に出す親の存在もこの歳になると耳にします。
だからといって、お父さんに早く家に帰れ!お母さんは働かずに家にいろ!などという社会状況に無いこともまた確かでしょう。だからといって教師の方々にしてみれば、我々は学問の教育者であって両親ではないから限度もあるし、多数の子供を見なければいけないというようなジレンマもあるでしょう。もっと突っ込めば、周囲の大人が子供に注意しない、子供が注意されると親が切れるなどこうした点でも社会教育が進みにくいのかもしれません。
昨日今日始まった状況ではありません。そうした常識に欠けた大人達も多数存在しますし、そうした大人がよりこの状況をエスカレートさせたように感じます。「ゆとり」が必要なのは大人達の方ではないでしょうか。
いわゆる「ゆとり」教育世代といわれる人たちには、そのゆとり分を使った自分の時間、マンガを読んだりゲームをしたり運動したり遊んだりした時間を大切にして欲しいです。そこから学んだことという物が必ずあると思います。それを見つけ出して欲しいです。
そうすれば学ぶがごとくマンガを読んだり学ぶがごとくゲームをしたりすることがいつしか出来るはずです。さらにはマンガを読むがごとく、ゲームをするがごとく、学ぶということから楽しみを引き出すことへと繋がっていきます。これを拡大していけば、世代の強みにだって出来ちゃうんじゃないかな?
「こんにちは」の意味が分からない人が、「Hello」を理解できるでしょうか。
掛け算や九九ができない人が、指数を理解できるでしょうか。
そういう現状が、受験のある私の中学校でもあります。
流石にHelloの例はありませんが、
小学校の英語教育ともなれば有り得る話だと思います。
何故小学校で英語を習わせているのか、未だに不思議でなりません。
基本的なことがなっていないと、何事もうまくいかないものだと思うのですが・・・。
とりあえず今のゆとり教育を受けてきた人のことも考えて、
授業だけを増やし、今までのことをもう一度きちんと
理解させてくれたらいいな、と思います。
表面上、私たちは授業が嫌いです。
でも、きっと大人になってから後悔するのです。
「もうちょっと勉強しとけば良かったな」と。
今のままではそれが笑える思い出になる以前に、
きっと思い出を語ることもできない大人になってしまいます。
これから小学校に入る人のためにも、
「脱・ゆとり教育」を実行してほしいと思います。
私のような学生からみてみると非常に良いと思います。
現在では勉強をおろそかにしている学生が多いそうですが、
それは例として挙げられるのは「勉強についていけなくなって
しまった。」というような例が多いと思います。
基礎を沢山学べば、応用問題にもそれを生かしていけるはずです。
なので、基礎から重点的に学んでいくのが最も良い方法だと思います。
賛成です。
昨今の様々な事件を見ていくとたどり着くのが
親の年齢的な世代の一致と、ゆとり教育世代であるということ。
学校教育というのは勉強をする事も何より重要であるとは思うが
それ以上に、様々な事に対する『耐性』を得る事であるような考える。
今の学校の状況はその耐性を得るどころか、子供から耐える力を奪っているようにしか思えない。
子供の主張ばかりを尊重し、親のばかげた要求に応える事ばかりを考える教育現場。
これで何をしようとしているのか。
1時間弱/1コマ×授業コマ数×日数
この時間、机に向かって集中できる子供がどれだけいるのだろう。
飽きたら教室中を歩き回っても怒れない教師。
怒れば逆ギレする親。
いったい何が悪くて、何が正しいのか考え直すべき時なのではないだろうか。
授業増、賛成です。
最近、理数系離れが進んでいるようですが、
理科の実験など学校でしか出来ない授業があると思うし、
内容を理解して、自分から勉強するようになるかどうか
はともかくとして、そのきっかけを与えるのは必要だと
思います。
私は、大学は理系に進んでエンジニアの仕事をしています
が学校で習った日本文学などが結構好きでよく読んでいま
した。
一般的に学校の授業だけでは足りないと思うので自分に
必要な勉強は自分でする必要があるのですが、今のゆとり
教育は「ゆとり」というより「必要な教育を与えていない」
と思うので授業増、賛成です。
ちなみに小・中学生以上に大人になってからも
たくさん勉強することがあります。
せっかくだったら楽しんでやりましょう!
自分は賛成でも反対でもないです。ただ、一つ言いたいのは、授業を増やすにしても社会に出てから役に立つような学習内容を増やさないと意味無いと思います。例えば数学の因数分解、古文、漢文など、社会に出て使ってますか?
授業時間の議論をする以前に、学習内容の見直しをもっと検討すべきではないでしょうか。
基礎教科の授業増には基本的には賛成です。なぜ「基本的には」というふうに書き込んだというと、この授業増はもう少し後でやったほうがいいと思うからです。まずは、いじめなどで学校に行かない不登校の生徒をどうするかというのを率先してやるべきです。教育は平等に受けるべきだからです。次には授業の質を上げるべきです。小学校のときは算数は少人数でしっかりと教えてくれると思いました。しかし、少人数でやってもクラス全員でやったときと大して変わっていませんでした。なので、ひたすら授業を増やしても意味はないと思います。それに伴い教員を増やすべきです。例えば、小学校や中学校では数量や図形などをやると思いますがそれを数量担当の先生と図形担当の先生に分けたら負担は半減されると思います。そして、ここで授業増をするべきです。
賛成です。ゆとり教育と柱になっているものの一つが「自分で問題を見つけ,それを解決する力を身に付けさせる(課題の発見と解決)」です。しかしこれは学ぶための基本となる知識や考え方が身に付いて初めて可能になることです。残念ながら時間的余裕を与えればできるようになることではありません。
特に小・中学校のうちは基本的な学習の中でものの考え方を深めたり,興味を持つきっかけとなる広い知識を身に付けて欲しいと思います。
賛成と言いたいですが、授業数を増やしても意味ないと思います。
僕もゆとり世代の中のひとりと言われるのかもしれませんが、
ただ『勉強しろ、勉強しろ』と言われても、勉強する気にはなれません...
僕は今後、教師の『教え方の質』が重要な鍵になるんじゃないかと考えてます。
最初から分かる子どもなんて、クラスで少数ですし...分からない子は置いてけぼり
状態。これも、仕方のないことだと、思います。
でも、子どもにうまいこと乗せて、勉強することはそんなにつまらないことじゃない。
『なんだ、こんなに楽しいものじゃないか』そう教えてあげられれば、
きっと、勉強をする本当の意味がわかるんじゃないかと考えます。
だから、授業数を増やす前に教師たちへの教える技術の教育、再教育をするほうが課題なのでは、と思います。
でも脱「ゆとり」のニュースを新聞で見たとき
私たちの世代だけ”ゆとりだ”と差別視されて就職に響く気がしてなりませんでした。
今年19歳になった私はゆとり世代、大人達は受験戦争世代、自分より10歳の子は脱ゆとり世代。この「ゆとり」の部分をいかに取り除くかは自分の努力でしかならないのでしょうね。
私は賛成です。smirk:
私は私立の中高一貫校の中学生なのですが、地元の公立の子達とは仲がいいんです。私は毎日部活や授業で忙しく、家に帰宅するのがいつも8時くらいです。それに、土曜日も授業があり、毎日が宿題や勉強に追われる日々です:sick:が、そんな毎日にやりがいを感じています。 ;-P 大好きな友達や信頼できる先生と一緒に過ごす学校生活は楽しいし、親も私の学校生活をちゃんと理解してくれて見守っていてくれています。そんな私はいいのですが、地元の子達を見ていると、授業は早めに終わってるし部活も積極的に参加せず、太陽が明るいうちに家に帰宅し、勉強もせずに仲の良い子とモールに遊びに出かける・・・私はお節介なのかもしれないのですが、こういう子達は自分を自分で堕落させているようなものだと思うんです。その子たちの生活を改善させるためには、私たちのような、勉強や部活に追われて四苦八苦しながら、生きていく上で、自分は自分の手で成長させるんだという事を学んで欲しいんです。だから、私はもっとの授業量を増やすべきだと絶対的に思います。
果たして「ゆとり」とは授業時間で決まるのか?
減らして出た問題は、増やしたら解決するのか?
制度の変更は、きちんとマネージメントできる人間がいて初めて成果につながると思います。特に子供の将来にかかわるような制度変更は、民間企業の経営者のように人生をかけてチャレンジしていただきたいものです。
「ゆとり教育」提唱者と同レベルの人間が「脱ゆとり教育」を唱えているとしたら、またしても失望させられ、被害を被るのは子供と将来の日本ということに・・・。
今騒がれている教育問題の本質は授業数じゃなくて、本気の大人、頑張っている大人と接する事がなかなか出来ないということ何じゃないかと思うのです。
勉強する時間なら、私が子供の頃よりも、今の子供の方が多いような気がするのは、単なる印象でしょうか・・・。
中学校の現場にいて思うことは,現在の選択授業の内容では生徒に教科で身につけたい力がつくとは思えません。また,総合学習もどれだけ役に立っているのか疑問です。
もちろん手を抜いて授業をしているわけではありません。疑問を持ちながらも,必死に授業はしています。
しかし,あまりにも教員に負担がかかりすぎ,本来の教科や学級に注ぎたいエネルギーを削られ,睡眠時間も削られ,自分の家族とのふれあいの時間も削られ,これでは身が持ちません。また,生徒たちにそれだけエネルギーを注いだだけの力が身についていないという現実。
教科の授業時間を増やし,その教科でこそ身につく力をより充実させていくべきではないでしょうか。
基本的には賛成です。
小学校で英語以前に、今や我が国の高校進学率はほぼ100%に近いのに
最低6年間英語教育を受けても、国際的に使えない英語を教える日本の教育方針の間違いもあるかと思います。
ゆとり教育の弊害は、子供だけではなく教諭にまで及んでいます。
近年、教員の精神疾患の急増はその為ではないかと警鐘を鳴らす、友人(教育庁勤務)も居るくらいですから。
中身をいかに充実させるか。
単に授業時間を増やし、ドリルや暗記ばかりの勉強では如何なものかと。
方針転換には賛成ですが、本当に授業時間を増やせば学力が向上すると思っているのでしょうか。学力の低下を他人(子供)のせいにしているとしか思えません。
授業時間だけで100%理解できる子は少数派でしょう。子供に勉強することの楽しさを伝えられるような授業力を先生がつければ、自然と学力は向上していくのではないでしょうか。
基本的には賛成です。でもどうなんでしょう、場当たり的な気がしてなりません。ただ、時間数・授業数を増やして、それでOKと思っているのなら大間違いで、何をしたいのか、何をするのか伝わっていなかったら、ただ不安になるだけ、無駄になるだけだと思います。
授業時間が増えることに関して、私は賛成でも反対でもありません。それ以前の問題のように思います。
まず授業時間を増やすよりも、授業の質を変えなければ多くなっても少なくなってもあまり変わらないのではないのでしょうか。
私が高校生の時、2つのクラスが同じ内容の数学の授業を受けました。それぞれ違う数学の先生が担当です。使うプリントは全く同じもの。
結果100点満点中、Aクラスは平均点80前後、Bクラスは平均点10点そこらで0点が続出しました。(最高点は50点ぐらいだったと記憶しています)
私は平均点の低いBクラスだったのですが……正直言って先生の教え方がよく分からず、ただ分けられたプリントを計算して答えを書くということを繰り返していました。
その先生は、答えを出すまでにどういう考え方をしたらいいのかということをほとんど説明しておらず、しゃべっているばかりの生徒をあまり注意もしていませんでした。
このクラス分けは、点数のいい人(Aクラス)とあまり良くない人(Bクラス)になっていましたが、それでもここまでの差はなかなかつかないものではないのでしょうか。
時間をかけてやれば児童・生徒達が理解するのなら賛成ですが、ただ時間をつぶすだけの授業ならもっと外に出ていろいろな体験をするほうがよっぽど有意義です。
授業時間を増やすにしても減らすにしても「わかる授業」、密度の濃い授業というものをやってほしいと思います。
増える教科についてですが……もちろん基礎教科も大切ですが、私は道徳の授業や生徒どうしのコミュニケーションの場を増やしたほうがいいと思います。
最近ではろくに人と話せないで引きこもる子や人の気持ちが分からずにいじめる子がたくさんいます。(今に始まったことではないのかもしれませんが)
勉強ができる・得意なものがある子でも、人と上手に接することができないというのは社会に出た時に致命的です。どんな仕事でも人との関わりはなくならないものなので。
そんな子達のためにもっと人の心を考える時間を設けたらいいんじゃないかな、と思います。これは国語の授業でも学べることですね。
ただこれは私自身、人見知りが激しいので余計目につくだけなのかもしれませんが。
それでは、乱文失礼しました。
脱ゆとり教育という現場自体は、問題がないと思いますが、
落とし穴もあるわけです。
授業が増えるって事はそれだけ「学ぶ」機会も増えますが
今、塾や家庭教師なんかで、既に教わったことをまた学校に来て
繰り返し「復習」するという現場になってしまっているようにも
見えます。それが代償ではないですかね。
私は「どちらでもない」と回答をしたのは、学校でしか学べないことも
あるって事だし、進んで能力を上げていくことも悪くはないです。
個人のスタイルがあるだろうし、勉強と言うのは強制されると
やりたくないと思ってしまうだろうし。
例えば、部活などの時間が増えることは
個人の能力を伸ばすことに値します。考え方が古臭いといわれがちな私ですが、
学ぶ機会は多いほうがいい。
社会に出ればさらに学び、知らなければ恥をかく場面もあります。
現在の仕事につくまでに、兼業で好きな仕事をするために
授業は必ず出て、最低限の知識はつけました。
店長をしていたころに「授業が減ったから、バイトしたいです」と言う子は
そのバイトがお金以外の何になるのかを考えさせようと思った事もあります。
授業が多くなれば、それだけ能力を伸ばす時間が惜しまれ
このままであれば、知識の低下は免れないと思います。
授業数を増やすことには賛成です。
しかし、ゆとり教育で今までやってきたのに急にゆとり教育がなくなるみたいなことしたら困ります!!現在中学生の私は、これから先どうなってしまうんだろう?と不安になります。周りの友達も不安だと言っていました。【不安】を取り除ける【安心】した学校生活を送れるように改善策を考えてもらいたいと思います。
授業増は…良くわかりませんが、ゆとり教育は必要ないと思います。
私が小学生の時はゆとり教育で、習ってない単元がいくつかあります。でも中学や高校でおそわるなんてこともなく・・・結局ぬけてしまった単元は自分で勉強しました。
でも私が正直、一番改善してほしいとおもうのは教師です。もちろん生徒のことを真剣に考えてくれる先生も大勢います。でもやっぱり自分の都合しか考えてない先生もいると思うのです。学校は学力だけをつける場ではないはずです。
学力の他に何か学校に大事な部分が欠けていると、今かよっている高校でも、前の中学でも小学校でも私は感じました。
自分的には楽なほうを選びたいけれど、小学生のうち少しの間だけでも詰め込み教育しておいたほうが
その後引っ掛かりが少ないと思う。
詰め込めるうちに詰め込んでおいたほうがよかったかもしれない。
ゆとりゆとりとゆとりをとりすぎて、どんどん楽なほうへと流れていってしまいそうで
怖い。
「昔の人間」
を見習うべきだと思う
昔は結構な詰め込みだったと思います。
人間やればできるのに。やらないだけなきがします
そりゃ・・・詰め込みすぎていやになることもあるだろうけど
もちろん私も楽をしたいしゆとり教育のほうが好きかも知れないけど、
詰め込みのほうがよかったりするkがします。
基礎教科の授業時間数増加で、学力向上をめざしているのだとしたら、効果はないと思う。
なぜならば、学校が楽しくないから。
学ぶことって、丸ごと楽しいばかりではない。
でも、昔の学校には楽しい行事がたくさんあった。
さまざまな行事のなかで、人とのかかわりや伝統行事、生活の楽しみを学んでいたはず。
ところが今では、点数ではかれる学力のみが取りだたされ、心を育てることをせず、
大人に都合のよい(日本の子どもの学力が世界第何位かなど、気にしているのは大人だけ)
子どもが求められている気がしてならない。
そもそもなぜ学ぶのか。
点数を取るために学ぶのではなくて、よりよき社会人となるために学び、
人々や、地域社会に貢献し合えるような人間を育てるのが教育ではないだろうか。
あれもこれも徒詰め込んで、1から10まで数値化して評価する。
評価されるということは、人間だから少しでもよく評価されたいと思うだろう。
それが向上心も生むのだが、こう全てにおいて点数点数、評価評価とされると、
常に緊張を強いられ、他人を抜かなければよりよい順位はでないから、
心のゆとりや優しさなど育ちにくくて当たり前ではないか。
日本の教育は子どもが笑わない教育だ。
心が冷えて、無表情。笑うこと、楽しい体験が乏しい。
大人が笑わない国、それを見ている子どもたちは、笑うことを知らないまま大人になる。
子どもたちには、楽しい体験をたくさんさせて、
「生きているって楽しい」って、体の中に沁みこませる必要があると思う。
教科の時間云々ではなくて、教育の根本。点数・学力至上主義をやめるべきだと思う。
基本的には賛成です。
しかし、土曜日を登校日にせず平日を利用して時間を増やしてほしいなと思っています。
現実問題として、土曜日を利用して、いろいろな取り組みをしている子供達がいるはずです。
急に時間数を確保するために、ころころと休日等を変更されると混乱がおこるはずです。
本当は、学校だけの授業でしっかりと勉強できて、塾に行くことがないような世の中になってほしいなと個人的には思っています。
今の子供達、本当にかわいそうです。私たちの時代ってもっといっぱい遊んでましたよね?
…でも勉強がついていけないってことはなかったような気がするのですが…。
時間増に賛成です。
変な話しですが、毎週土曜は半日授業をやるのを当たり前で育ってきました。
大人が休みたいから、子供休ませるのってどうかな?と思っていた口です。
何曜日に、どう授業時間が増えるのかは分かりませんが、基礎もできない子供を増やすよりは
良い傾向だと単純に感じています。
取材で経営者や業界トップで活躍する方とお会いして話しをする機会が多いのですが、いつも
思うことは「読み書きそろばん」の大切さです。
もう一度、教育も原点に戻ってみては・・・と思います。
時間増は賛成です。ですが,授業増となると・・・う~ん。
教師として授業を行っていると,もう少し時間があれば理解できるかもと思うことは多々あります。また,この勉強はもう少し詳しく掘り下げて教えたいと思うこともあります。(実際教えたりしますが。)
ただ,問題は,教科の中の何を増やすかということです。例えば,「授業時間が増えました。授業内容も増えました。」では,結局,もう少し時間がほしいという状況は改善されません。今までと同じ内容にして反復練習しやすいように費やす時間を増やすとか,ここはもう少し掘り下げて詳しい内容にしようとか,勉強の中身とそれに費やす時間をしっかり吟味しなくてはいけないでしょう。
また,個人的には図工,音楽,体育,家庭の授業時間も増やしてほしい。いわゆる技能教科こそ反復練習が必要なのに活動する時間は少ない。このどれもが生活に欠かせないものだと思っているのですが。
それに,ゆとり教育といえば「総合学習」ですが,わたしは嫌いではありません。地域のことや福祉のことなどを考えるきっかけとするにはいい学習です。この学習の時間が減るのは少し残念です。
最後に個人的意見。ゆとり教育っていい意味で家庭教育に期待したのかなと思います。(悪い意味だと家庭教育にまる投げ。)でも,忙しい家庭の状況や貧富の差による問題を考えると,詳しい説明が無く(あるいは届かず)始めてしまったのが,つまずきのもとだったのかもしれませんね。
英語の時間を抜いて、他の教科に当てるべきです。で、合計事業時間は変わりなしとする。
小学校の段階で英語を必修にすることはおそらく非効率ゆえに有害でしょう。より自国語教育を充実させるべきです。
もちろん、英語教育は総合的学習の課題としてなかなか良いとは思います。数ある良い総合的学習の課題の選択肢のひとつとしてはです。
私は中学3年生です。このゆとり教育のせいで大変な目にあっています。かといって、急にゆとり教育をやめることはしてほしくありません。このゆとり教育のせいで、私たち中学生が習うべき単元は授業数が少ないため削られて、ほとんど国語科に関しては知識がないのと同じようになっています。漢字がかけないこや、長い作文で自分の意見をかけない子が本当に多くいます。そんな知識が少ない中で、授業数を増やしたところで子供たちの学力が上がるなんて、考えられません。私の学年はゆとり教育の第一の被害者でもあります。来年高校へ上がったとき、すごく困ることばかりだと思います。
それから、ゆとり教育を始めだした役人の人たちは、教育現場がいま大変なことになっているということを見たことがないから、人事のように言えるんだと思います。
基礎教科の授業をおろそかにすると、他の教科の学習に支障が出ます。一番分かりやすいのが算数(数学)の文書問題を問題文の読解力不足で正解を出せない例です。(全国学力調査でその様な傾向が有るとの分析がなされたと聞いています。)
国語や数学を増やして、外国語(主に英語)の授業数を削るべきです。
特に外国語教育の位置付けをコミュニケーションツールとしての外国語取得に一大変更するのであれば、教員養成課程の変更と既存教員の再教育・職種変更を行う必要があるので必然的に授業数の削減が必要になると思います。
(既存教員はコミュニケーションツールとしての外国語教育手法に関する教育を受けていません。又教員自身がその外国語でコミュニケーションを取る事が出来るかどうかは、養成・採用基準に入っていません)
もう一つ外国語の授業数を減らしても良いと考える理由に反復継続して学習する習慣を身に着けさすのが、外国語教育のこれまでの目的だったのです。その観点から言えば基礎教科の授業数を増やせば目的が達成されると考えるからです。
operaさんが気にしていた剣道の防具ですが、学校に専用の防具があります。それを使って授業をします。体操着の上に着用する物で、小手と胴・前垂れは普通の物です。面は特別な物で、肌に触れる顔の周りだけ付いていない物です。その部分だけ別売りの面様のパーツを購入してもらって私物で対応します。(多少特有の臭いがするとは思いますが)
基礎学力と言うものの内容も考えたほうが良いかも、知れません。地学や地理・歴史の授業でどの様な土地に人々は住んできたのか、そこにどの様なメリット・デメリットがあって住んできたのかを教育しています。しかし、社会に出てからその知識を活用しない、忘れてしまう人が大勢居るような気がします。(先日の大雨で水辺の住宅が浸水被害を受けていましたが学校での知識を活用すれば、最初から浸水する所だと分かっていたはず)これは一つの極端な例かも知れませんが、他にも沢山の例があると思います。
時間増、賛成です。
算数の小数・分数の四則計算(足し算、引き算、かけ算、割り算)、国語のローマ字、読解力、一般常識力などの「知識格差」を肌で感じています。
私の住んでいる地域には、外国人が異様に多く(しかも英語が母国語でない国の方)その子供たちの学習遅れによる不登校も増えています。基礎学習時間を増やすことばかりでなく、こうした子供たちにも最低限度の学習機会が与えられると、地域安全という観点からも、更によいと思います。
ただ、今回の中教審では日本の武道(剣道、柔道、相撲)も盛り込まれるとのこと。剣道なんて防具だけでかなりお金がかかるのに、大丈夫なのでしょうか?子供たち全員に道着など新たなる負担を強いることはできるのでしょうか?私たちの地域では、給食費問題は、死活問題になりつつあります。かなり心配です。