著名人インタビュー この人に聞きたい!
漆紫穂子さん[校長]
[INDEX]
- 第1章 女子教育に命をささげてきた家庭に生まれ、教育者としての薫陶を受ける。
- 第2章 人間関係に悩んだ小学時代。教師になる想いがますます強くなった中学時代。
- 第3章 高校時代は、あらゆる角度から自分がどの科目が向いているか検証。「好き」と「得意」が一致した国語教師を選択。
- 第4章 一教師としてのびのびと仕事がしたくて他校へ就職。水の合う校風と生徒に囲まれ、充実した3年間を過ごす。
- 第5章 大学合格という目先のことだけでなく、自立した女性の教育に主眼を置く「28プロジェクト」を推進。
- 第6章 早くから将来にアンテナを立てていれば、「好き」と「仕事」が近づく。
- 第7章 親の価値観を押しつけるのではなく、子どもの「好き」を大切にする。
●第4章 一教師としてのびのびと仕事がしたくて他校へ就職。水の合う校風と生徒に囲まれ、充実した3年間を過ごす。
――大学ではもう迷いもなく、教員を目指して勉強されたのですか?
バスケットが、組織を運営する楽しさを教えてくれた。>
【漆】もちろん、勉強はしましたが、大学ではバスケットが中心の生活でしたね(笑)。バスケットは、高校に入学した時、同じ中学の友達に誘われて始めました。当初、同じ学年の友達は10数人いましたが、あまりの練習の厳しさに、夏、私がホームステイから帰ってきたら、たったの5人になっていたのです。バスケットは1チーム5人でプレーしますから、あと1人でも抜けると試合ができなくなってしまいます。私はその中でたった一人の初心者でしたが、責任感からやめたくてもやめられなくて。ところが、下手だからこそ自分のできることで貢献しようと工夫しているうちに居場所ができて、いつの間にかのめり込んでいました。なにより楽しくなったのはディフェンスです。自分がここで賭に出ても誰かがカバーしてくれると直感するような一体感がチームに出てきたとき、何とも言えず気持ちよかったです。このとき、私はチームプレーが好きなんだなと感じました。
高3なると、通常は受験に備えて引退するのですが、「次のチームを育てたいから6月まで残って欲しい」とコーチから頼まれ、キャプテンとして残りました。このとき、チームの運営を学びましたね。下級生のチームですから当然戦力ダウンします。そこで「チームの力は、一番弱い選手の力」とコーチから言われ、どうしたらボトムアップできるだろうかと考えました。誰と誰の仲がいいとか悪いとか人間関係で振り回されることも、全力で練習に打ち込む人もいればそうでない人もいるという温度差に悩まされることもありました。
人数が少ないクラブでしたから、誰一人やめられては困ります。そんな中で一人ひとりのいいところを組み合わせて、いかに総合力の高いチームを創り上げていくかいつも考えていましたね。
このとき気づいたのがリーダーは軸をぶらしてはみんなが迷うということ。手抜きは許さないが積極的なミスは責めないと決め、それを貫きました。また、後輩が背中を見ているのでいつもチームのために全力を出しきるようにしました。そのとき、力はセーブすると疲れるけど出し切ると疲れないという不思議な体験もしました。
その延長で、中央大学でもバスケットを続け、キャプテンになりました。大学までの学校生活の中で、最も仕事に役立っているのは、バスケットでの経験と言っても過言ではありません。それほど、大きな学びがありましたね。
――大学卒業後、早稲田大学の専攻科へ進み、他の学校に就職されたのですね。
【漆】早稲田大学では、1年間、非常勤講師として教壇に立ちつつ教職としての国語を専門的に学びました。現役の先生が半分ほどいる場所でしたので現場の生の声をいろいろ聞かせていただきました。その上、高校の頃にシミュレーションしたように、教員として必要になるかもしれないと思ったことは専門教科以外もできるだけ身に付けておいたので、もうやる気満々でした。あるとき、「スキーの引率もあるかもしれないから」と一人でスキー場に行って黙々と練習していたら、リフト係の方から「仕事じゃないんだからもう少し気楽に滑れば?」と言われたほどです。(笑)。
就職に際しては、他校を選択しました。実は、親からは、「はじめからこの学校でやった方がいい」と勧められたのですが、それでは考え方が偏ってしまうのではと思い、他校に勤めることにしました。私のなりたいのは現場の教員で学校経営者ではないという思いもありました。
私は国語教師として、都内にある私立の中高一貫校に採用していただきました。そこには3年間勤めたのですが、1年目は、中学3年生の授業を受け持ちました。最初は若くて力がありませんでしたから、必死でしたが、回りの先生方にいろいろなことを教えていただき慣れていきました。少しずつ生徒ともコミュニケーションがとれるようになってきて本当に楽しかったですね。2年目には中学1年生の担任をさせていただき、3年目はそのまま持ち上がって中学2年生の担任をしました。中学生といえばちょうど反抗期ですが、私は自分が間違えた時はすぐに謝ることと、だめなことはだめという生徒に迎合しない厳しい姿勢を大切にしていました。たとえ嫌われても自分の手の届かないに行ったとき、その子が困らないようにいう信念があったので。
楽しく、責任のある仕事をさせてもらって、いい意味で気が張っているから風邪もひかないし、私にとって教師は天職だと思いました。今、思えばその学校が長年築きあげてきた校風や、生徒たちの素直な気質の上で気持ちよく仕事をさせてもらっていたのだと思います。そんな環境でしたから、その学校が大好きだったし、最後まで勤めあげるつもりでした。
――その後、実家が経営する学校へ移りました。
【漆】あるとき、上司から品川女子の経営が悪化してという情報を知らされました。そこまでとは思っていなかったので愕然としました。そんな中、学校の存続をかけて一大改革を行うことを知らされました。同時に、副校長だった母がガンを患っていることが発覚し、余命幾ばくもないことが分かったのです。
私がお世話になっていた学校では、中学1年、2年と担任をやらせていただいたので、できれば3年生までやって中等部卒業を見届けたいという思いはありました。しかし、移るのであれば、改革を始めるタイミングでなくては意味がありません。これまでお世話になって恩返しもしていないのに、クラスの子どもたちを、途中で放り出していいのかと自問しました。一方、品川女子の卒業生の母校が消えてしまうかもしれないという状況の中、身を削って学校を守っている人々を傍観していていいのかという思いがあり、葛藤しました。
もちろん、経験3年の教師に大したことはできないことは分かっていました。何かを決断するとき、よく「後悔しないように」と言いますが、それはあり得ないと思います。必ず何かを諦め、その時の痛みや申し訳なさを一生背負って生きていくわけですから。
悩みに悩んだ結果、「たとえ自分が幸せになっても、その陰で誰かが不幸になっていくとしたら、それは自分にとって幸せではない。だったら、私も一緒になって実家の学校を改革しよう」と決意し、生徒に事情を全部話して辞めました。その話をしたときの生徒達の泣き顔は今も忘れられません。
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