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著名人インタビュー この人に聞きたい!
冨田勲氏さん[音楽家]

写真:冨田勲氏さん

1932年生まれ。慶應大学在学中より作曲活動に入り、NHK「きょうの料理」や大河ドラマなどの番組テーマ曲を創作。日本初のシンセサイザーによるアルバム「月の光」が米ビルボードクラシカルチャートの第1位、グラミー賞4部門にノミネートされ、注目を集める。84年にはドナウ川及びその両岸と上空より立体的に音響効果を創り出すコンサート「サウンドクラウド」を行い、独自の音宇宙で観客を包み込み、深い感動を与えた。同イベントは86年にニューヨークでも開催、その後も「幻想交響組曲絵巻“源氏物語”」の作曲など、旺盛な活動意欲はとどまるところを知らない。


日本で初めてシンセサイザーを輸入し、独自のサウンドを生み出した冨田勲氏。学生時代より作曲活動に入り、70歳を過ぎた今もなお、電子音楽やオーケストラの魅力を自在に引き出し、スケールの大きな音楽を世界の人々に送り続けています。今回はご自身の創作活動を振り返りつつ、幼い頃からの関心事が、どのように仕事へとつながっていったのか、そして、シンセサイザーとの出会いからビルボード誌のクラシックチャートの1位を獲得するまでについて、お話をいただきました。

取材日:2006年1月



第1章 音の響きへの興味 ~直感を信じて進んだ先に~

「あんな音楽をやって、おまえ、飯が食えるのか」と親父に言われました。

【冨田】北京に住んでいた6歳頃のある日、父が天壇公園の「回音壁」へ連れていってくれました。そこで聴いた今まで体験したことのない不思議な音の響きを、僕は今でも鮮明に覚えています。姿の見えない親父の声が湾曲した壁をつたって聞こえてくる。面白くて、とにかく不思議だったんです。でも、親父は僕を医者にするつもりだったので、音に興味があると気付いても、音楽を習わせようとは全く考えていなかった。ピアノの音を鳴らすだけで非国民と石を投げられる時代でしたから。

終戦を迎え、慶応高校に編入し、進駐軍のラジオ放送に興味を持ちました。中でも20世紀の現代音楽にやみつきになったんです。それまで、軍楽隊の演奏するブカブカドンドンは耳にしましたが、あれは音楽ではなく、町で聞こえる音の一つにすぎなくて、ちっとも感動しなかったんですよ。ところがその放送を聴いたらまるで違う。ラベルの「ダフニスとクロエ」を聴くと、海の向こうから太陽が出てくる風景がイメージとしてわいてくるんです。同じ楽器を使ってなんでこうも違うのかと思いました。

そのうちに、レコードがどうしても欲しくなったんですが、山手線をどこまで乗っても10円の時代に、僕が聴きたかったストラビンスキーの「春の祭典」の輸入盤は3800円。無事に届くかわからないから2枚購入するよう店員が勧めるし。どうしようかと迷いましたが、日本で発売されるまでのんびり待つ気には、とてもなれません。岡崎にいた親父に平身低頭で頼み込んで費用を出してもらって、ようやく手に入れたんです。

それで、早速、親父が来ましたよ。そんな高い値段のレコードにはさぞかしすごい音楽が入っているだろうと期待したんでしょうね。でも、聴いたら、案の定、黙っちゃってね。出だしのファゴットで「なんかアヒルが首をひねられているようだ」と。そのうちに低い半音階が続くあたりでトイレに立っちゃって、座って、寝ちゃったんですよね。

間もなく岡崎に呼び出しになりました。「とにかく帰ってこい」と。「東京で真面目に勉強しているかと思ったら、邪教徒のような音楽を聴いているではないか。あんな音楽をやって、おまえ、飯が食えるのか」。それは僕だって自信ないですよ。あれには困ったね。

直感的に「とんでもないところに深入りしそうだな」と思って、音大は選ばなかった。

【冨田】高校卒業後は音大へ進学することも考えました。ところが、当時の音大はドイツ音楽に傾倒していたので、「とんでもないところに深入りしそうだ」と直感的に思って、それなら音楽理論は本を読んで覚えればいいと考えた。それに、慶応を出たクラシックの音楽家というのはあまりいないんですが、周りに音楽青年や情報通の友人がいて、いろいろな知識が自然と入ってくる雰囲気がありました。YMCAの芸術園も彼らを通じて知ったんだと思います。そこで弘田龍太郎さんに音楽理論を習ったので、それで十分だと思っていました。

さらに、大学2年のときに朝日新聞主催の全日本合唱連盟のコンクールがあり、その課題曲に応募したら1位で当選したわけです。それで、ちょっと親父の態度が変わりましたし、僕も自信がついた。

僕の作品が課題曲になったので、合唱コンクールには作曲者として招かれ、その後、同席したNHKやレコード会社の現場担当者から仕事をもらうようになりました。学生服のままでタクトを振るような若造だったんですが、NHK大河ドラマの作曲者に抜擢されたりして、運も良かったんです。とにかく、そんなふうにして僕は音楽を覚えてきました。

中でも、ステレオ放送のラジオ番組「立体音楽堂」では、作曲やアレンジに夢中になりました。当時はまだスピーカーが一つというのが常識だったですから、まるで海の中にいるように音が広がって聞こえるのは新鮮な驚きで、音を両耳で聴く幸せをしみじみと感じましたね。

生の演奏からイメージの音色をつくり出すのには限界を感じていました。

【冨田】ただ、仕事をしているうちに悩みも出てきました。オーケストラでは、どの作曲家の作品でも楽器の音はみな同じです。画家の場合、色彩にイメージが反映されますから、輪郭がはっきりしなくても色合いだけで表現できる。ところがクラリネットは誰が吹いたってクラリネット。ハーモニーで多少は変わりますが、楽器の音そのものは絶対に変えられない。それが一つの疑問でした。録音技師に頼んで、フィルターをかけたり周波数を変えたりといった特殊な効果をしてもらいたくても、どうしたいのかを伝え、理解してもらうのに時間がかかる。

あるいは、自分のイメージと違った生演奏であっても、オーケストラには何の落ち度もないわけですから、何度も演奏させられると気分的に嫌気がさしてきちゃいます。最高の演奏ができるピークのときは、いくつもないと思うんです。役者さんの撮影だってそうでしょう。「よかったよ。だけど、ちょっとカメラのピントがボケてたんだ」と言われたら、ガクッと来ると思いますよ。それと同じで「ちゃんと演奏してもやり直しさせやがって」みたいに言われた。ミキサールームで聴いたときに、自分の演奏がこんなに変わったとショックを受けてしまう人もいるかもしれません。演奏者の人格も尊重しなくてはいけない。だから、生の演奏から自分のイメージの音色をつくり出すのには技術的にも時間的にも限界を感じていました。

そんなときに、ちょうどモーグ博士のシンセサイザーと出会ったわけです。